現在、やまびこ館では特別展「館蔵品展Ⅳ」を開催しています。
本展は鳥取市歴史博物館が近年収集した資料を中心に約100点を展示します。伝え・遺されてきた鳥取市ゆかりの資料を通じて、鳥取市の歴史・文化を紹介する展覧会です。
最終日の24日(日)には展示解説を行います。
是非、お越し下さい!
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さて、以前に「仕事が出来る人には仕事が集中するという話」というのをアップしましたが、今回も同じ「葉黄記」の宝治元年からです。
この記事は、宝治元年6月11日と24日条の抜萃です。
簡単に訳すと、
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11日、晴れた。
(定嗣は)上皇(後嵯峨上皇)の御所に参上した。数刻(数時間)して上皇のお言葉を承った。世上のことと徳政のことである。
「関東のことが落ち着いたあと、関東へ使者を派遣し、徳政のことについて(幕府と)話し合いをせよ。その使者は定嗣をおいて他にはいない。下向せよ」という内々のお話しがあった。
「(私=定嗣は)はその(適切な)人選ではありません」ということを、恐れながら申し上げた。
さらに上皇が仰るには、「関東への下向は前相国(一条実経)をはじめ、皆(下向した)先例がある。今、それを嫌がるようなことではない。徳の高い僧侶(上人)が唐に渡ったあと、その誉れが得られる。今回の使節をやり遂げたらそれと同じくらいの名誉となるだろう」という仰せがあった。
この事は、今ここで決定すべき事ではなく、(私が色々と)今からいうべきことでもない。事実であったときは(実際に定嗣の派遣で話が進むようであれば)、(その時に)よくよく考えることにしよう。―(略)―
24日、小雨が降り、すぐに晴れた。
(定嗣は)上皇の御所に参上した。私が使者として武家(幕府、関東)に向かうようにという沙汰があった。辞退した。前相国が関東申次であり、どうしてそれとは別に使者が必要であろうか。
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こんな感じでしょうか。
この史料は、宝治元年6月に鎌倉で起こった宝治合戦の直後に、天皇の代替わりの時に徳政(良い政治)について幕府と協議する使者を決めるときのものです。
ただ、11日に天皇の発言(勅語)に「世上事」とあるので、宝治合戦に関する事後処理の話も関東へ行った使者はすることになるのだろうと思われます。
この時の話で、関東のこと(=宝治合戦の混乱)が落ち着いたら鎌倉に使者を派遣するという話になるのですが、後嵯峨上皇は自身も信頼し、色々な業務に精通している葉室定嗣に下向をさせたいと考えました。上皇は「定嗣以外にはいない(其仁定嗣之外無之)」とまで言っています。
しかし、定嗣はそれを固辞します。
辞退した理由は、おそらく24日にあるように、上皇の家政を取り仕切る側近とはいっても関東との交渉を担う申次役ではないのが一番の理由だと思われます。関東との交渉役は、この時は一条実経という正式な関東申次がいますので、すくなくとも定嗣は自分が前面に出て対応する必要はない、という考えがあったのでしょう。
そのため、定嗣は自分はそれが出来る人物ではない、と言って断っています。
また、そのような政治的な判断とは別に、自身の体調不良もあり、そもそも行きたくなかったのかもしれません。
しかし、定嗣を派遣したい上皇は定嗣の説得を試みます。
それが11日の真ん中から2行先くらいまでの一言です。
「関東への下向は前相国(一条実経)をはじめ、皆(下向した)先例がある。今、それを嫌がるようなことではない。徳の高い僧侶(上人)が唐に渡ったあと、その誉れが得られる。今回の使節をやり遂げたらそれと同じくらいの名誉となるだろう」
上皇は突然、定嗣を説得するために遣唐使とともに大陸にわたった僧侶を例に出し始めます。
わざわざ日記に書いているあたりは、上皇にそこまで言わせたことへの喜びや自慢というよりは、「は?この人何言っちゃてるの?」という感じを受けます(自慢するつもりなら、おそらく役目を引き受けるかどうかはともかく、名誉だと直接書くと思いますし、そもそも定嗣は職分を越えた仕事を是とする性格でもありません)。
この上皇と定嗣のやりとりは、上皇が定嗣を説得するために遣唐使の話を持ち出したのは、多少(かなり?)の誇張をして定嗣の気持ちを上げようとしているのか、あるいは関東に行ってくれたらそれだけ取り立ててやるよと、という上皇のメッセージだったのか、その真意はこれだけなので分かりませんが、一条実経は申次になって日が浅いし、信頼している近臣の定嗣を派遣して、関東との話を無難に終わらせたかったなどが理由として推測されます。
しかし、そもそも行く気が無いし、行く立場でもないと思っている定嗣は、最後まで関東への使者を固辞し続けました。
この史料は鎌倉時代の公家社会の人々を考える上でも興味深いものだと思います。鎌倉時代の貴族たちの世界観の一端が反映されている一文と言えるかもしれません。
奈良時代~平安時代初期までの日本は使者を大陸に派遣し、世界の中の日本であろうとします。
当時の日本は、国内のエリートを送り込み、世界の最先端の知識や技術を取り入れるべく、様々な文物を持ち帰り、また海外から日本へ仏教の知識を伝える僧侶や手工業の技術者など、様々な人たちを招聘して日本の国力の増強に励んでいました。
そのような国内外の情勢のなかで、吉備真備や玄房など海外の知識でもって立身出世を果たした貴族がおり、またその一方で、唐の皇帝に寵を受けて現地で客死した阿倍仲麻呂など、世界で活躍する日本人も輩出しました。
因みに奈良時代~平安時代初期の遣唐使を初めとする外交の歴史については、最近刊行された佐藤信編『古代史講義【海外交流篇】(筑摩新書)』(筑摩書房、2023、河野保博「奈良時代の遣唐使」)で分かりやすくまとめられていますので、興味のある方はそちらを読んでみてください。
しかし、鎌倉時代の皇族や貴族たちは、日本列島と大陸を股にかけていた奈良時代の貴族と違って、中国大陸に渡ることが鎌倉に行くことと等しいと言ってしまいます。
遣唐使が廃止されて400年ほど経過し、貴族たちが京都から出るのは、熊野参詣などの、現代からみれば近隣の寺社や、遠くても国司の地方下向くらいしかありません。
その結果、彼らの世界は次第に狭まっていったと思われます。そして、とうとう関東に行くことが中国に行くのに等しい世界になってしまったのかもしれません。
「葉黄記」に話をもどすと、結局、定嗣は関東への派遣を断り、無事に京都から出なくて済みました。
しかし、余計な仕事を回避したかに思えた定嗣ですが、混乱する政局と、つもりに積もる朝廷と院御所の仕事を前にして、ますます体調を崩していくのでした。