2024.3.7

館蔵品展Ⅳよもやま話 淀屋辰五郎の闕所事件と倉吉淀屋

現在、鳥取市歴史博物館では、館蔵品展Ⅳ~先人の遺してくれたもの~を開催中です。やまびこ館が収集した資料をお披露目する展覧会です。その中に、大坂の豪商であった淀屋辰五郎の闕所(財産没収)の記録があります。実はこの淀屋という商家は倉吉と関係があるのです。淀屋辰五郎は大坂の豪商であった淀屋の五代目で、豪奢な生活ぶりや幕藩領主に対して多額の貸付を行っていたことが原因となり、幕府から闕所(財産没収)の処分を受けたといわれています。今回展示しているのは、この時、淀屋が没収された財産のリストです。この財産記録には、「淀屋第一宝」とされる「真金之鶴」をはじめとした国内外の調度品に加え、大坂や京都などにある家屋敷、莫大な諸大名への貸付金、幕府の御用金などがリストアップされています。特にこの「真金之鶴」は、唐(現在の中国)の皇帝であった玄宗(685~762)が所持していたものとされています。玄宗は名君として知られる一方、楊貴妃を寵愛し、安史の乱の原因を作ったことでも知られます。そんな人物所縁の品、しかも純金製の鶴を所持しているとは、淀屋の経済力の大きさがうかがえます。

淀屋は財産没収の後、江戸・京・大坂から追放され、八幡で社家となったと伝わります。しかし、これ以前に、淀屋は幕府による淀屋の取りつぶしを見越していたといわれ、使用人の牧田仁右衛門が出身地の倉吉で店を開いており(倉吉淀屋)、この淀屋は稲扱千刃の製造販売などで財をなし、後に大坂で淀屋を再興しています。つまり倉吉にあった支店のお陰で、淀屋は再興されたのです。なお倉吉と大坂の淀屋はその後幕末まで続きますが、安政6(1859)年に、なんと財産のほとんどを朝廷に献上し、閉業してしまったといわれています。これには諸説あり、倉吉が光格天皇の生母である大江磐代君の出身地で、その母親の家と縁があったため、あるいは倒幕運動への援助のため、などがいわれています。しかし、倒幕が現実味を帯びるのは、これよりも後の時期、慶応年間(1865~1868)になってからですし、大江磐代君の母親の家と縁があったからといって、財産を朝廷に献上して閉業するというのも、なんだか不可解です。これについては今後も研究が必要かと思いますが、いずれにしても、淀屋は倉吉とのつながりがあり、それが大坂淀屋の復興にもつながっていくのです。そう考えると、大坂の豪商の闕所事件も、鳥取と全く無関係ではなかったといえるでしょう。

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