2023.9.21

仕事が出来る人には仕事が集中するという話

先週、「鳥取城のあゆみ~布勢天神山城から鳥取城へ~」が閉幕しました。

そして、来週末からは、「鳥取城のあゆみ~城から公園へ~」が開幕します。

前回の展覧会は関ヶ原合戦で終わりましたが、次の展覧会はそれ以降の時代についてです。

二つの展覧会を通じて、鳥取城の歴史を成立から今日まで一通り網羅できると思います。

是非、お越しください!

鳥取城のあゆみチラシ_ご確認用-1

 


さて、特に書くことも無かったので、最近見た、面白い(?)史料の話です。

なお、鳥取城とは何も関係ありません。

 

鎌倉時代中期の貴族・葉室定嗣という人が書いた日記「葉黄記」という史料をじっくり読む機会があったのですが、面白かったのが、寛元4年(1246)7月4日~8月27日までの下記の条文です。

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「葉黄記」寛元4年(1246)7月4日~8月27日(抜萃)

 

特に見ていただきたいのは8月2日条です。大まかな訳としては、

「体調不良が続いており、良くならないので、新たな療養(投薬か祈祷か何か)をはじめた。院(後嵯峨院)や東山殿(九条道家)、殿下(一条実経)から病気を見舞う使者が度々やってこられる。相国(西園寺実氏)や前内府(土御門定通)などの人たち(の使者)も頻繁に訪問してくる。その上、院や朝廷の仕事が絶え間なくやってくる。これこそ体調が良くならない原因だろう。いったいどうしたものか。」

という感じでしょうか。

来訪する人たちは、一応は定嗣の体調不良を見舞ってるのだろうと思うのですが、そのついで(むしろ、こっちが本題?)に仕事の話もして帰るようです。

この日に定嗣が書きたかったことは、一言でいえば「私の体調不良が治らないのは、見舞いにかこつけて仕事を持ってくる人たちが次々とやってくるのが原因だ」、ということのようです。

 

この史料を読む前提として、これを書いた定嗣という人がこれを日記に書き記す背景が必要だと思います。

葉室定嗣が生まれた葉室家は名家という家格をもつ公家(貴族)の家で、朝廷の実務を担う一族の一つです。この葉室家は、実務官僚の弁官と蔵人を経て参議に昇進して、最終的に大・中納言まで昇進していく家柄でした。

定嗣は葉室家の次男として生まれますが、父・光親と兄・光俊は承久の乱に巻き込まれて失脚(光親は斬首)したため、次子だった定嗣が葉室家を継ぎました。一方で、定嗣は兄の子・高雅を養子として受け入れて後継者にしていますので、光俊の存在は無視せずに立てていたようです(晩年は高雅と険悪になっていますが)。

定嗣は聖人君主とまではいわなくても、院の近臣のなかでは有能で誠実な人だったようです。定嗣は近臣といっても上皇に媚びるだけではなく、上皇の間違ったことも伝える度量がある人でした(後嵯峨上皇の御幸の行き過ぎをそれとなく咎めている)。そういった姿勢が回りに評価されていたようで、上皇をはじめとして、定嗣の引退後は、それを惜しむ人もいたようです。

 

寛元4年(1246)の定嗣は弁官から参議に昇進していますが、朝廷で日々行われる実務の指示や差配に関わっています。また、日常的な行事の他に後嵯峨の子・宗尊親王に関する行事などについてもその仕事やそれらの相談などが色々と舞い込んでいたようです。

そして、寛元4年からは譲位した後嵯峨上皇の院政を取り仕切る執事になっており、上皇の家の諸行事などの差配にも携わるようになっています。

 

この頃の社会情勢としては、京都から遠く離れた鎌倉では執権である北条氏と縁の深い安達氏と、前将軍・九条頼経と深い関係を築いていた三浦氏の対立が深刻化しており、この年に九条頼経の側近たちが謀反を理由に粛正され、その流れで頼経が京都に送り返されるなど、争いの火種が炎を出し始めて徐々に大きくなり始めたころになります(実際にこの翌年には宝治合戦が起こり三浦氏が安達氏と北条氏によって討伐されています)。

まさに「幕府内で大きな争いが起こるかも知れない」、という鎌倉の雰囲気が京都にも頼経の帰京という形で目に見えて伝わり、緊張が高まりつつあったのが、寛元4年の京都だったと思われます。

そのような情勢下で、定嗣は上皇から信頼されていたのもあって、関東での出来事に対して、院の近臣として度々彼の下に話が持ち込まれています(関東に関することは定嗣は関東の申次(この年のはじめに一条実経から西園寺実氏に変更されている)ではないのでそっちを通してやってくれ、と主張していますが、上皇の側近である定嗣にも話が持ち込まれていたようです。

 

このように、このときの定嗣は各方面の業務に奔走しているのですが、7月になると、とうとうその忙しさが体調に顕れてきます。

それが、上記の7月4日条で、「痢病痔」といっているので、おそらく胃腸に変調を来したのであろうと思われます。もしかすると、ストレス性の胃腸炎などになっていたのかもしれません。

本人のカウントによると一日に20回ほどトイレに行っている(「痢病痔計会」)ようですので相当酷かったのでしょう。

 

そして、発病から1ヶ月ほど経ったのが、最初に紹介した8月2日条です。

定嗣の可哀想なところは、発病後にも仕事が日々持ち込まれているところです。そのため、発病から20日後の7月22日には、酷くなった(「所労猶増気」)と書いており、この1ヶ月後くらいの8月15日にはすこし改善したようでトイレの回数が10回ほどに減っていたようですが、その後、それ以上は良くならなかったようで、慢性的な体調不良と戦っています。

 

しかし、仕事は絶え間なく彼を襲い続けます。

8月25日には、六波羅探題(幕府の出先機関)から佐治重家なるものが、六波羅探題の長官で幕府の超大物の御家人・北条重時の使者としてやってきます。

彼は、病気のお見舞いという体でやってきますので、定嗣は家人(青侍)に対面させて適当にあしらおうと思ったようですが、重家は言いました。

「お目にかかることが出来ればお伝えしたいことがあります(「若入見参者、可申之由有蒙命事」)」

 

それはそれとして、おそらく8月4日に書かれている貴族の面々も、このような感じで彼に用務を伝えてきたのだろうと想像されます。

 

そして、仕方なく(?)重家に会ってみると、北条重時が直接お会いしてお話ししたい重大な話があります(「返々雖有甚(其)恐、罷入見参之條、有大切事之、」)、と言ってきました。

結局、定嗣は「武家なのにこんなやり方で面会のアポを取るのってアリなの?(近代武家法不及子細)」と不満を漏らしつつも、鎌倉から送り返された九条頼経が7月28日に京都に到着して北条重時の邸宅に入っていたためか、2日後に、病身を引きずって六波羅探題まで行って重時と対面しています。

当然、真面目な定嗣は体調不良であっても事前に上皇の了解を取ることも忘れていません。

「病を相扶けて輿に乗る」とわざわざ書いている辺りは、六波羅への参向の作法を書き残したかったのかもしれませんが、若干、定嗣の不満が読み取れる一言のように感じます。

 

ちなみに、この佐治重家は現在の鳥取市佐治町域にあたる佐治郷を本拠地としていた武士です。

彼の父(あるいは祖父)が佐治郷の領有をめぐって従兄弟と争った際に、偶然鎌倉に訴訟のために滞在していたときに和田義盛の反乱(和田合戦)に遭遇し、北条方として合戦に参加した縁で、その子孫は北条重時の家人となっていたようです。

 

そんな感じで、定嗣に舞い込む仕事は発病前後であまり変わらず、体調不良は結局、翌年に持ち越されました。

長引いた体調不良も年始を少し過ぎた位には体調が改善したようですが、やはり調子があまりもどらなかったようです。

そこで、定嗣は決断をします。

 

「そうだ、温泉にいこう」

 

定嗣は宝治元年の2月に有馬温泉に行っています。有馬温泉は、舒明天皇から始まり、後白河法皇、豊臣秀吉に至るまで色々な権力者が滞在していますが、鎌倉時代には京都の公家の療養先として好まれていた温泉地でした。

その記事が、以下のものです。

 

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「葉黄記」宝治元年(1247)2月8日~2月26日

 

定嗣がいつ湯治を思い立ったかは分かりませんが、2月8日に有馬温泉に行くことを各所に伝えて、その準備をしています。

そして、偶然なのか、狙ったのかは分かりませんが、上皇が石清水八幡宮に参籠するタイミングで10日に京都を出発しています。

この日は吹田(現・大阪府吹田市の辺り)に宿泊していますが、ここに有馬温泉のお湯を取り寄せて早速湯治を楽しんでいます。

吹田は西園寺氏の別荘(別業)があったらしく、西園寺氏が度々吹田まで有馬温泉のお湯を取り寄せ、その御湯を上皇も楽しんでいた場所だそうです。

そして、翌日に有馬温泉についた定嗣は、24日まで滞在し、湯治をしつつ、近隣の神社などに参拝して病気平癒を祈っています。

そして、26日に京都に戻りました。

温泉につかりつつ、近くの神社やお寺などを散策する(娯楽ではなくそこまでが治療のうちでもあるのですが)。まさに今の湯治のようです。

 

「葉黄記」は定嗣の自筆原本はなく、また彼が書いた日記の期間がすべて残っていません。また、寛元4年~宝治2年までの3年間くらいしか日記が連続で残っていないのですが、少なくとも、残っている宝治2年のうちは、この有馬温泉の旅行を境に体調不良を訴える記事が格段に減りますので、一旦仕事を離れてリフレッシュしたのが良かったようです。

因みに、定嗣は晩年仏教に傾倒し、葉室家の別邸を「浄住寺」というお寺にしていますが、仏教への傾倒はこの時の病気がそのきっかけではないか、と考えられています。

 

さて、これらの史料を見ていて思うのは、いつの時代も仕事が出来る人の下には仕事が集まるんだなぁ、ということです。

皆さんの回りにはいないでしょうか。定嗣のように身を削って仕事をする人たち。

現代社会だけでなく、鎌倉時代にも仕事のストレスはあったのかもしれません。

この「葉黄記」の記述は、人々の日常生活は、鎌倉時代も現代も、思ったより違いがないのかもしれないと思わせてくれる史料だと思いました。

 

このように、貴族の日記はこのような記事も多く、意外に楽しく読むことが出来ます。

鳥取県立図書館にも一般的な史料集のシリーズ(『大日本古記録』や『史料纂集』、『史料大成』など)が色々と収蔵されており、簡単に読むことが出来ます。

なお、「葉黄記」は『史料纂集』(八木書店から刊行)で活字になっています(全2巻)。

是非、読んでみてください。

 

しかし、定嗣の様な感じまでは望みませんしそんな能力はありませんが、仕事が出来る人になりたいものです。

 

(書人不知)