2024.9.19

明治大学の創立者・岸本辰雄を育んだ上町・樗谿

鳥取時代の岸本辰雄

明治大学創立者・岸本辰雄は、江戸時代の末期、嘉永4年(1851)に鳥取藩士・岸本平次郎の子として誕生しています。幼名は辰三郎といいました。父平次郎は、鳥取藩の士分としては最下級の侍でしたが、鳥取藩の諸施設を建造する際の土木技術者として手腕を発揮した人物です。

辰雄は父の時代に拝領した上町(現鳥取市上町)の屋敷で幼少期を過ごしています。屋敷跡地は鳥取市歴史博物館の第1駐車場の西側になります(近くには明治大学校友会鳥取県支部により案内板も設置されています)。目の前にはかつて徳川家康を祀る東照宮の巨大な鳥居があり、八百屋・煙草屋・飴屋などが軒を連ねる町屋の一角にあたります。辰雄にとって生涯忘れられない町の景色だったと思います。

辰雄は幼少期より鳥取藩の藩校・尚徳館に学んでいたようです。上町から鳥取城方面に通じる「山の手通り」が通学路であったかも知れません。

青年期を鳥取で過ごした辰雄は、のちに鳥羽伏見の戦い、いわゆる戊辰戦争の開戦により、慶応4年(1868)4月京都警衛部隊に従軍し、その後は鳥取藩の新国隊に参加して上京する機会を得ています。

岸本辰雄肖像

岸本辰雄(明治大学大学史資料センター蔵)

 

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岸本辰雄屋敷跡周辺(案内板)

貢進生に選抜され大学南校・司法省法学校に進学

明治3年(1870)19歳の時には、鳥取藩の人材育成策により東京の箕作麟祥(父・阮甫は津山藩蘭学者)の共学塾に学んでいます。翌4年には明治政府が官僚を養成するために設けた「貢進生」の制度で鳥取藩の代表3人に選抜され転機を迎えます。大学南校、現在の東京大学に進学するのです。明治5年には新たに開設された明法寮の司法省法学校の第1期生に移籍し、ここで終生の師・ボワソナードについて本格的にフランス法学を学びます。後に明治法律学校(現明治大学)の創立者となる2人すなわち、天童藩出身の宮城浩蔵、鯖江藩出身の矢代操も司法省法学校の卒業生でボワソナードの弟子です。

 

フランスに留学、帰国して法律学校を創立

明治9年、ボワソナードは成績上位3名をフランスのパリ大学に国費留学生として派遣します。留学期間は3年で年間学資金は千円でした。辰雄はこの間、西園寺公望と同じ学生下宿(ホテル)で過ごすなど、明治大学の創立に欠かせない人脈を形成して同13年2月にフランスから帰国。翌14年1月に明治大学の前身、明治法律学校を東京数寄屋橋に創立します。東京府知事松田道之(もと鳥取藩の陪臣)に提出された設立申請書には、「我々はこのたび協力して私立法律専門学校を設立して、いささかでも御国恩に報いるために、無月謝にて各々の公務の余暇を利用して教授したい」と述べています。(伊藤康晴)

 

メモ 「貢進生」とは

貢進生は各藩から推薦された学徒のことで、明治新政府、国の人材育成制度です。藩の石高に応じて15万石以上の大藩は3名、5万石以上は2名、5万石未満の小藩は1名を推挙しました。32万石の鳥取藩からは岸本辰雄(仏学)・村岡範為馳(独学)・藤田精太郎(独学)の3名が選ばれました。全国からは総勢310人が選抜され、語学別に三課程に分かれ、英語が219人、フランス語が74人、ドイツ語が17人でした。