2024.3.1

北海道に渡った鳥取東照宮 ~鳥取と岩見沢のつながり~

北海道岩見沢市に鳥取東照宮の分社である「鳥取神社」があります。釧路市にある鳥取神社は、鳥取市と釧路市が姉妹都市提携をしていることもあり比較的知られていると思いますが、一方の岩見沢の鳥取神社は、現在「東神社」と社号を変えているので余り知られていないかもしれません。岩見沢にも釧路と同じ制度(移住士族取扱規則)で、明治18年(1885)に鳥取県士族を中心とする105世帯が移住していることに由来します。

彼らは鳥取城下において武家の象徴ともいえる旧因州東照宮・鳥取東照宮(当時は樗谿神社)を分霊して開拓地に「鳥取神社」を祀りました。鳥取東照宮の唯一の分社であり、北海道では数少ない「東照宮」であると言われています(高藤晴俊著『家康公と全国の東照宮』)。

北海道の開拓地では原野開墾が一段落すると、多くの場合、神社や学校を建設して村づくりに着手されます。岩見沢でも移住2年後の明治20年に鳥取神社の原形となる小社を祀ったといわれ(『岩見沢市史 東郷土誌』)、同25年には池田家から「御歴代様の御写真」が神社におさめられたとあります(家政日記)。正式な勧請は、明治33年のことで、立派な社殿がこのころに建造されています(東神社資料)。背景には鳥取から移住した氏子の増加があるようです。明治33年には士族130戸・平民173戸とあり、僅か15年で大幅に増加し、主に農業に従事する世帯が士族世帯をはるかに超えて、全体では約3倍になっています。当時の記録にも「追々同県人増加ニ伴セ、今般信徒一同協議ノ上、社殿建築シ永遠尊崇祭祈スル処ニシテ、更ニ御神霊を奉迎シ一社創立ス」とあります。

岩見沢のある空知地方では明治時代半ば頃より水田耕作が盛んで、明治25年の同地方の米穀生産は北海道全体の約7割を占めていました。鳥取県東部から同地方への移住者は、明治期だけで300世帯余りとなるわけですが、当時は正式に届を出さない移住者も相当数いますので、これは一部ということになります。士族集団が岩見沢に移住したのちも、その周辺に鳥取から村落農民が継続的に移住しているのです。

北の大地に勧請された東照宮は、厳しい環境で原野開拓に従事した鳥取移住者の精神的な拠り所になったのだと思います。(伊藤康晴)

【岩見沢市の東神社 拝殿(上)と本殿(下)】

拝殿本殿

【参考】

明治18年に鳥取から岩見沢に移住した士族の女性に上村ウタがいます。ウタは「因幡踊り」(盆踊り)を岩見沢に伝えた人で、その歌詞はウタが体験した移住開拓の経緯を歌詞にしたものです。参考までにその全文を以下にご紹介しておきます。

HP 開拓踊りの歌_page-0001