2023.7.27

移築された上町大雲院の堂舎

江戸時代の東照宮別当寺・大雲院の諸堂は、鳥取市歴史博物館のある上町の樗谿、現在の樗谿公園の梅林と芝生の広がる一帯にありました。明治時代になると新政府の神仏分離政策で、明治2年(1869)に東照宮のお膝元である上町から転出し、観音院を経由して末寺の立川霊光院に寺院機能を移して大雲院とされました。

使用されていた建造物はどうなったのでしょうか? 以前より現在の大雲院元三大師堂は「上町樗谿から移築されたもの」と伝承されていましたが詳細は不明でした。この度、大雲院所蔵の約6千点の古文書が調査され、『大雲院資料調査報告書』として発行されました。これまで未調査だった古文書の内容が明らかになり、本堂(護摩堂)・本坊(庫裡)・大師堂・御霊屋などの諸施設の創建、焼失、再建、移築などの経緯がわかってきました。

その成果によれば、現在の大雲院の元三大師堂の建物は、歴代の徳川将軍の位牌を安置・祭祀した「御霊屋」が明治3年に移築されたものと判明しました。移築後の御霊屋は、東側の半分を大師堂として、西側を従来の御霊屋に使用して現在に至っていますが、元々は樗谿にあった御霊屋を移築したものだったのです。

またかつて大雲院本堂の役割を担った大師堂も移築され、同じく明治3年に鳥取城下教蓮寺の本堂にされました。明治時代の半ば頃には、当時教蓮寺のあった丸山から20キロほど離れた吉岡村(現在の吉岡温泉町)に解体されて運ばれたそうです。その部材は、筏に組んで舟運されたといいます(『慈光山 教蓮寺誌』)。袋川から千代川に出て河口付近から湖山川をさかのぼり、湖山池南岸の松原付近で陸揚げされ、吉岡村に運ばれたと思われます。しかしながらその後は昭和18年の鳥取大震災で教蓮寺は倒壊し、かつての大師堂は姿を消しています。

激動の明治維新は、東照宮別当寺大雲院を大きく変貌させたのです。

(伊藤康晴)

 

【写真1】立川町にある現在の大雲院元三大師堂

【写真1】元三大師堂

【写真2】教蓮寺に保存されている旧大雲院大師堂の部材(木鼻部分)

【写真2】 木鼻部分

 

【メモ】

建坪のもっとも大きかった本坊(庫裡)は、明治時代の初めに入札され近隣の民家に一部が移築されていたそうです。三つ葉葵の瓦を使用していたといわれます。