2023.8.5

江戸時代のお金!?寛永通宝

江戸時代は、それ以前の時代に比べて貨幣の流通量が大きく増加しました。また戦国時代までは、中国などから輸入された銅銭などが主に使われていましたが、江戸時代からは国産の銭が大量に流通するようになります。それが寛永通宝と呼ばれる貨幣です。

寛永通宝(表)

寛永通宝(表)

寛永通宝(裏)

寛永通宝(裏)

 

寛永通宝は、寛永13年(1636)から鋳造が開始され、幕末まで鋳造が続けられました。ちなみに昭和28年(1953)までは、法律上は使えたのだとか。

 

江戸時代には、「西の銀遣い、東の金遣い」といわれ、西日本では主に銀が、東日本では主に金が貨幣として用いられました。鳥取では主に銀が流通し、鳥取藩は銀と交換できる紙幣、銀札を発行するなどしています。しかし、小判などの金貨や丁銀などの銀貨は非常に高額で、日常的に使用するには不便でした。今の感覚でいえば、10万円札や100万円札を持っているようなものです。江戸時代には両替屋が多くあり、そこで金貨や銀貨は寛永通宝などの銭に両替し、日常の買物などに用いられました。ちなみに小判1両は銀60匁で、銭4000文に相当します。1両の価値は時代によって変わりますが、今の価値でいえば、およそ10万円~30万円ほどと言われます。ですので、1文は25円~75円ほどになります。

 

寛永通宝の発行枚数は、なんと300億枚~400億枚と言われており、現在の10円玉の発行枚数が300億枚くらいなので、それに匹敵、または上回る量が発行されています。現時点で、日本史上最も発行枚数の多い貨幣です。

 

ところでやまびこ館の地下にあるまなびのひろばには、江戸時代に作成された双六のレプリカがあり、実際に遊ぶことが出来ます。この双六は鳥取城をスタートし、鳥取の名所などを巡りながら、ゴールの東照宮を目指すものです。銭のマークがあるマスに止まると、手持ちの銭を賽銭として納めるルールになっています。その銭は、当時も寛永通宝などが用いられたと考えられます。当館では、江戸時代に実際に使用されていた寛永通宝を用意し、ゲームに使えるようにしています。江戸時代の人びとが実際に使った寛永通宝、双六で遊びつつ、昔の人びとの暮らしに思いを馳せてみては如何でしょうか。

まなびのひろばの双六

まなびのひろばの双六