今、大河ドラマ「どうする家康」が話題となっています。徳川家康は、三河国(現在の愛知県東部)の出身で、江戸に幕府を開き、徳川家による260年にもおよぶ全国支配の礎を築いた人物としてよく知られています。
そんな家康ですが、死後は神として祀られ、東照大権現という神号で呼ばれました。その家康を祀った神社が東照宮で、栃木の日光や静岡の久能山の東照宮は、特によく知られています。しかし、東照宮という神社は全国に存在し、仙台や金沢、広島など、全国各地に東照宮の名を冠した神社があります。やまびこ館のある樗谿にも鳥取東照宮という神社が鎮座しています。この鳥取東照宮ですが、慶安元年(1648)に鳥取池田家の初代光仲が幕府に対し、鳥取にも東照宮を勧請することを請願し、これを許可されます。翌年には東照宮の建設工事が始まり、慶安3年(1650)に鳥取東照宮が完成します。
光仲の他にも、多くの大名が東照宮を自身の領地へ勧請していますが、それは将軍家に忠誠を誓い、将軍家と近い関係にあることを示す上でも重要なことでした。池田光仲の祖父にあたる池田輝政は、2番目の奥さんとして家康の娘である督姫を迎えています。その2人の間には、忠継と忠雄という男子が生まれており、忠雄の子が光仲です。つまり、光仲にとって家康は曾祖父にあたります。忠雄は岡山藩主でしたが、若くして亡くなり、数え年で3歳の光仲が池田家の跡を継ぎます。その際、幕府から因幡・伯耆への国替えを命じられたのです。岡山が重要な場所なので、幼い光仲には任せられない、という理由でした。
しかし、幼い光仲は、はじめ江戸にある池田家の屋敷で生活しており、鳥取藩の政治は池田家の縁戚などで構成される家老たちが中心となって行われていました。光仲が初めて鳥取の地に足を踏み入れるのは、慶安元年(1648)3月のことで、光仲は19歳になっていました。光仲は早速、曾祖父である家康の三十三回忌の法要を行い、次いでこの年の12月に鳥取へ東照宮を勧進することを幕府へ請願しています。19歳という若さの光仲にとって、藩政の中でその存在感を示し、藩主の権力を確立させる上でも、家康の法要執行と東照宮の鳥取への勧進は重要なことであったと考えられます。以降、光仲は藩主主導の政治を実現していくことになります。鳥取東照宮の創建はそうした流れとリンクするものであり、光仲が藩主として、池田家当主として成長したことを示し、同時に徳川将軍家との関係の近さを誇示するための一大行事だったと言えるでしょう。
鳥取東照宮は、明治7年(1874)から平成23年(2011)までは樗谿神社と称しており、明治以降は、家康に加えて池田忠継(光仲の伯父)・忠雄(光仲の父)・光仲を合祀し、同明治11年(1878年)、最後の藩主・慶徳を合祀しており、家康だけでなく、池田家をも祭神とする神社として近代も存続していくことになります。現在の鳥居は、もともとあった位置から後退し、現在の位置へと移っていますが、江戸時代に建てられた門や社殿が残り、拝殿・幣殿と本殿は国指定重要文化財となっていて荘厳な雰囲気を醸し出しています。
鳥取市歴史博物館では、明後日5月7日(日)の14時から、鳥取東照宮の周辺をめぐり、学芸員が解説する「見てみよう!歴史の現場① 鳥取東照宮」というイベントを実施します。定員まで残り僅かですが、まだ予約が可能です。ご興味のある方は、ぜひやまびこ館までお問合せください。