樗谿に鎮座する「鳥取東照宮」は、国の重要文化財に指定されている社殿のほかにも見るべきところがたくさんあります。ここでは泉水のある樗谿の風景についてご紹介したいと思います。
随身門の前にある池周辺の風景は、時の移ろいとともに少しずつ変化していますが、東照宮神域の厳かで静寂に包まれた雰囲気は江戸時代とさほど変わらないと思います。樗谿は東照宮の建立のため370年前に人為により開発され、その後、水辺の景色は山本宗林という鳥取藩主の御側役や茶事をつかさどった人物の「物数奇」により修景(風景を整備すること)されたと伝えられています。
宗林は、父宗賢の時代より鳥取藩の御茶道として藩主池田家に重用されました。もとは小堀遠州公の家人といわれ、茶事に長じていたといいます(『鳥府志』)。久松連山、山の手地域にある寺院の庭園や、池田家の分家・東館池田家の御庭を手掛けています。現知事公舎付近に該当する東館の御庭は、江戸海晏寺の庭園を写したと伝えられています。宗林は他にも慶安寺、芳心寺、本慈院などの作庭を手掛けたようです。また国史跡名勝として知られる観音院庭園も作庭者の名前は伝えられてていませんが、「小堀遠州流の庭園」と伝承されていることから、あるいは山本宗賢・宗林が関与したお庭なのかも知れません。
宗林は久松連山から降る渓水を庭園の泉水としてうけて、路地をめぐらす妙手だったようであり、その技量や趣向が「物数奇」と称されたのです。随身門前の池(王子の池)には、今は存在しない落差約十メートルの瀑布と、脇には水に対する信仰に関係の深い弁才天が祀られていました。
明治末期頃に撮影された写真には、瀑布の手前に茅葺屋根の四阿が写っていますが、ここに江戸時代は弁才天が祀られていました。『鳥府志』東照宮の「弁天」の項目には次のようにあります。
△弁天の社
中の御門を入て右の方へ細流に架せる板橋の向は、則その境地なり。側に滝ありて池にかゝれり。其風色尤佳なり。往世に此池に藤の棚あり。萼(はなぶさ)いと長くして、皆人これを嘉賞せしとかや。一説に、此地風景は山本宗林が物数奇なりと載す。 以下略 (傍線筆者) |
今は失われた瀑布ですが、かつては岩をうつ水の音が、随身門周辺に響いていました。岩盤を削って造られた滝つぼが静かに往時の姿を伝えています。
(伊藤康晴)
【メモ】
弁才天が勧請されたのは元禄3年(1690)のこととされています。弁才天は明治維新以降、当地から姿を消しますが、現在立川町大雲院にお祀りされている弁才天がそれではないかと推測されます。 瀑布の水源は樗谿川上流の御宮池です。御宮池から滝水道が山腹に開削され瀑布が作られました。現在は水脈が絶たれていますが、滝つぼの前には「王子の瀧」と刻む明治45年(1912)の石碑が建っています。 |