2019.5.31

岩国と吾妻鏡

今週、出張で岩国まで行ってきました。

岩国といえば、錦帯橋。鳥取では鳥取砂丘や仁風閣にも立ち寄る、豪華寝台列車「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」も岩国には錦帯橋などを目当てに立ち寄るそうです。

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あと、ついでに、岩国名物だという、「岩国寿司」というものも、昼食で食べてみました。

素朴な感じの、押し寿司でした。

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さて、岩国には、吉川家伝来の宝物を展示している、吉川史料館というところがあります(瑞風も立ち寄るそうです)。

ここには、国指定重要文化財に指定されている「吾妻鏡」という資料が所蔵されています。

「吾妻鏡」は、以仁王と源頼政が平家打倒に起ち上がり、源頼朝の下に以仁王の令旨が届く、治承4年(1180)4月から、親王将軍・宗尊親王が将軍を辞する文永3年(1266)7月までの87年間のことを記した史料です。鎌倉時代を知る上での必須文献として、多くの研究者や、歴史を学ぶ大学生たちによって読まれている史料です。

鎌倉幕府が書いた原本は既に散逸してありませんが、後世の人の手によって再び集められ、編纂したものが今に伝わっています。

吉川史料館が収蔵している「吾妻鏡」は、吉川本と呼ばれ、戦国時代のはじめに中国地方に強い影響力を持っていた大内氏の部将・右田弘詮が収集し、整理した本の一つで、後に吉川氏がこれを引き継ぎ、今に至ります。他の伝来本からは脱落している記事がかなり多く遺っているなど、大変貴重な写本の一つです。

 

さて、突然ですが、人の悪口っていいますか?(笑)

ここで、Facebookのコメントなどに「はい!いつも言っています!」とか、リアクションがあるとちょっと対応に困るのですが・・・(「いいね」などのリアクションはしません)。まぁ、色々なケースで、不満を言いたくなるときはありますよね・・・。

そして、それは昔の人も同じです。

 

最近「吾妻鏡」を読んでいたら、面白い記事に行き当たりました。

それは、元暦2年(1185)4月15日に頼朝が発給した、朝廷への書状が引用されています。以下がその書状の部分になります。

下 東国侍内任官輩中 可令停止下向本国各在京勤仕陣直公役事、

副下 交名注文一通 右任官之習、或以上日之労賜御給、或以私物償朝家之御大事、各浴 朝恩事也、而東国輩、徒抑留庄薗年貢、掠取国衙進官物、不募成功、自由拝任、官途之陵遅已在斯、偏令停止任官者、無成功之便者歟、不云先官当職、於任官輩者、永停城外之思、在京可令勤仕陣役、已廁朝烈、何令籠居哉、若違令下向墨俣以東者、且各改召本領、且又可令申行斬罪之状如件、

元暦二年四月十五日

 

東国住人任官輩事

兵衛尉義廉(鎌倉殿ハ悪主也、木曾ハ吉主也ト申シテ、始父相具親昵等、令参木曾殿メント申テ、鎌倉殿ニ祗候セハ、終ニハ落人ト・被処ナムトテ候シハ、何ニ令忘却歟、希有悪兵衛尉哉、)

兵衛尉忠信(秀衡之郎等令拝任衛府事、自往昔未有、計涯分、被坐ヨカシ、其気ニテヤラン、是ハ抽ニヲツル、)

兵衛尉重経(御勘当ハ粗被免ニキ、然者可令帰付本領之処、今ハ本領ニハ不被付申シ、)

渋谷馬允(父在国也、而付平家令経廻之間、木曾以大勢攻入之時付木曾留、又判官殿御入京之時又前参、度度合戦ニ心ハ甲ニテ有ハ、免前前御勘当可被召仕之処、衛府シテ被斬頸ズルハ、イカニ能用意シテ語于加治テ、頸玉ニ厚ク頸ニ可巻金也、)

小河馬允(少少御勘当免テ、可有御糸惜之由思食之処、色様不吉、何料任官ヤラン、)

兵衛尉基清(目ハ鼠眼ニテ只可候之処、任官希有也、)

馬允有経(少少奴、木曾殿有御勘当之処、少少令免給タラハ、只可候ニ、五位ノ補馬允、未曾有事也、)

刑部丞友景(音様シワカレテ、後鬢サマテ刑部カラナシ、)

同男兵衛尉景貞(合戦之時心甲ニテ有由聞食、仍可有御糸惜之由思食之処、任官希有也、)

兵衛尉景高(悪気色シテ本自白者ト御覧セシニ、任官誠ニ見苦シ、)

馬允時経(大虚言計ヲ能トシテ、エシラヌ官好シテ、揖斐庄云不知アハレ水駅ノ人哉、悪馬細工シテ有カシ、)

兵衛尉季綱(御勘当スコシ免シテ有ヘキ処、無由任官哉、)

馬允能忠(同)

豊田兵衛尉(色ハ白ラカニシテ、顔ハ不覚気ナルモノノ只可候ニ、任官希有也、父ハ於下総、度度有召ニ不参シテ、東国平ラレテ後参、不覚歟、)

兵衛尉政綱 兵衛尉忠綱(本領少少可返給之処、任官シテ、今ハ不可相叶、嗚呼人哉、)

馬允有長 右衛門尉季重(顔ハフワフワトシテ、希有之任官哉、)

左衛門尉景季 縫殿助 宮内丞舒国(於大井渡、声様誠憶病気ニテ、任官見苦事歟、)

刑部丞経俊(官好無其要用事歟、アワレ無益事哉、)

此外輩、其数雖令拝任、文武官之間、何官何職分明不知食及之故、委不被載注文、雖此外、永可令停止城外之思歟、 右衛門尉友家 兵衛尉朝政 件両人下向鎮西之時、於京令拝任事、如駘馬之道草喰、同以不可下向之状如件、

※()内は割り注

この史料はどんなものかというと、頼朝は関東の御家人が朝廷の官職得る時には頼朝の推挙が必要であるとしたのですが、この文書が出された背景には義経と、平家追討で活躍した他の御家人たちや頼朝との対立、さらには朝廷の思惑など、様々なものが背景にあるのですが、ともかく、源義経をはじめ、何人かが頼朝の許可を得ずに任官をしてしまいます。その時に頼朝が朝廷へ提出したものです。

ここで、頼朝は任官した武士たちが如何に任官が妥当でないかを書き上げると共に、彼らが関東へ戻ってくることを禁止しています。

注目すべきは、何故任官が適当でないか、ということを書き連ねている部分です。

最初の何人かは、それらしい理由が書かれてはいるのですが、途中から「鼠眼」だとか、「顔フワフワ」やら、顔色がよくないとか、どうも容姿が適当ではない、ということを言っています。鼠っぽい眼とはどんなものかは分かりませんが、何となく印象がよくない気もします。馬允有経という人物には「顔はフワフワとして、希有の任官か」と書かれており、顔がフワフワしているから任官に向いていない、という事らしいです。なんとなくフワフワした顔というのはよくはない気もしますが、それだけで任官はダメなの?とは思ってしまいます。

あるいは、最後の関東から鎮西に派遣された右衛門尉友家と兵衛尉朝政が、その途中に立ち寄った京都で任官したことには、「駄馬が道草を食うようなものだ」という言葉を投げかけています。

 

実際には政治的な背景や、新たに鎌倉に登場した組織を理解し切れていない武士たち、また頼朝やその側近たちの記憶にも残らないような勲功しかない者が任官していることに対する批判ということではありますが、ただ、なんとなく、顔を真っ赤にして悪口を言い立てる頼朝と、それを言われたとおりに淡々と書状に認める官僚の姿を想像すると(実際どの様な状況で書かれたかまでは資料にはありませんが)、ちょっと面白い気がします。

 

 

それはさておき、やまびこ館では、来週6月8日(土)から、キャシー中島 キルトの世界(主催;新日本海新聞社)が開幕します。

キャシー中島さんの精巧でで美しいキルトをご堪能ください。

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