はじめに~100年前の鳥取から~
今年は、新型コロナウイルスの影響により、高校球児の夢である、春のセンバツと夏の甲子園が開催中止となったことは、すでに皆さんご存知かと思います。
今から100年前の大正9年8月には、鳥取県で初めての少年野球大会が開催されました。
この大会は、因伯時報社(現・新日本海新聞社)が主催した大会で、写真絵葉書にあるように「鳥中グラウンド」で同年8月10日より開幕しました。
参加は県内小学校などの20チームで、A組・B組と2組に分けられ、試合が行われました。大会最終日の同月18日、各組の優勝決定戦が行われ、A組は久松小学校、B組は遷喬小学校が優勝しました。
この横に長い絵図面は大正15年(1926)頃の鳥取市街及び近郊を描いたものです。
この絵図面のなかに、さきほどの少年野球大会の会場となった「鳥中グラウンド」のある「鳥中」が描かれています。
赤い四角に「第一中学校」と黒字が記されているのが「鳥中」のことで、現在の鳥取県立鳥取西高等学校のことを指します。
グラウンドは、現在の同校のグラウンドの場所です。つまり、広さの違いはありますが、ほぼ、現在と一緒の場所です。
100年前の大正9年の鳥取市の人口は71,476名でした。当時の鳥取市域は現在のように広範囲ではありません。城下町とその一部近郊という市域でした。たとえば、今の行徳・岩倉・賀露・湖山・吉成あたりは、まだ鳥取市ではなかったのです。(詳しく知りたい方は、「角川日本地名大辞典」編纂委員会編集『角川日本地名大辞典 31 鳥取県』(昭和57年、株式会社角川書店)、有限会社平凡社地方資料センター編集『日本歴史地名大系 第32巻 鳥取県の地名』(平成4年、株式会社平凡社発行)などの地名に関する書籍を、お近くの図書館で見てみてください。)
このころの鳥取は、前年の大正8年12月に山陰と山陽側を結ぶ因美線の一部(鳥取―用瀬間)が開業、明治45年3月に全通した山陰線(京都駅―出雲今市駅間)と合わせて、鉄道網が整備されていくような時代でした。(若桜線は昭和5年開業)
鉄道網が整備されたのは、もちろん鳥取だけではありませんでした。全国的に地方都市への鉄道路線の整備が進んだ時代でした。全国的に鉄道路線が整備されていくなかで、その鉄道路線を効果的に表現した鳥瞰図が当時流行していました。
この絵図面がまさにそれです。この絵図面は、大正15年(1926)に鳥取市が発行した「鳥取市要覧」の付図として掲載されたものです。
作者は中村光風です。
鳥観図の作家で有名なのは吉田初三郎ですが、中村光風についてはわからないことばかりで、生没年や出身地さえもわからず、吉田の影響を受けた画家と推測するのみです。
絵図面の中央には、鳥取市のランドマークである「久松山」が象徴的に描かれています。図面右上には「豊岡」、左には「米子」や「隠岐」の地名が記され、左右に赤線が引かれているのが鉄道路線で、ここでは山陰線を指します。
絵図面には、赤い縦長の四角の表示がたくさんあります。四角のなかには、官公庁や銀行や商店や名所旧跡などの名称が記されています。
本図面がつくられた背景には、鉄道路線が整備されるなか、名所旧跡を県内外に観光地として広報する目的もあったと考えられます。
今回は、このなかで紹介されている建物を、現在と比較して紹介していきます。
鳥取市公会堂~樗谿とやまびこ館~
まずは、「市公会堂」と記された建物です。
この建物を撮影した写真絵葉書をみてみましょう。
場所は鳥取市上町、鳥取市歴史博物館の第1駐車場にありました。この絵葉書では「鳥取公会堂」と記されています。
この建物は、大正2年(1913)5月に完成しました。鳥取市立川町の吉村徳平が自費を投じて建設し、それを鳥取市に寄付したといいます。
外観は和風の2階建てに見えますが、内部は和洋折衷で、2階には130畳の大広間があったといいます。官公庁や地域の各種団体が会合などで利用していました。
しかし、昭和18年(1943)9月10日の鳥取大地震で被害を受け、利用できなくなってしまいます。その後、補修されることなく、同30年に取り壊されてしまった建物です。
この建物が取り壊された後、鳥取市水道局の庁舎が建設されました。その後、水道局庁舎は平成10年9月に現在地の鳥取市叶に新築・移転、平成12年(2000)7月1日に当館開館以来、当館及び公園利用者の駐車場として利用されています。
- 現在の様子
- 駐車場の一角には公会堂に関する石碑もあります
鳥取市の目抜き通り~若桜橋~
つぎは、市街地の若桜橋をみてみましょう。
公会堂と同じように写真絵葉書でみると、当時の橋はこんな感じです。
橋の欄干には擬宝珠(ぎぼし)が施されているのがわかると思います。また、橋上には、自転車の男性も確認できます。そして、橋を久松山方向に渡っていくと、右手に細長い碑が確認できると思います。
この碑は、二代目鳥取市長の田中政春(たなか まさはる)の顕彰碑でした。昭和4年(1929)まで建っていましたが、その後、旧鳥取市庁舎の敷地に移転、戦時中には金属部分が供出の対象となってしまいます。
- 若桜橋を往来する人々
- 欄干の擬宝珠
- 田中政春(2代目鳥取市長)の顕彰碑
その後、基礎部分が残っていたようですが、いつの間にか撤去され、現在は遺構が確認できません。
現在の若桜橋は、昭和27年(1952)4月17日の鳥取大火によって当時の若桜橋をはじめ鳥取市の中心市街地が焼失した後の同30年10月に復興のシンボルとして、岩美町出身の彫刻家・山本兼文氏がデザインした彫刻が象徴的な橋に一新しました。
学校のうつりかわり~鳥取商業・鳥取北中~
次は、「商業学校」と記されたところをみてみましょう。
この学校は、今の「鳥取県立鳥取商業高等学校」のことです。
場所は鳥取市東町三丁目、今の鳥取市立北中学校のある場所にありました。写真絵葉書をみてみましょう。
学校入口の門柱に注目してください。
この門柱は近年まで、鳥取市立北中学校の敷地にそのまま建っていましたが、同校の改築に伴い、鳥取市湖山町北2丁目、現在は鳥取県立鳥取商業学校の敷地に移築されています。
剣豪・荒木又右衛門の墓~玄忠寺~
最後は、「荒木又右衛門 墓」です。
荒木又右衛門は、日本三大仇討ちのひとつ「伊賀越仇討ち」で知られる荒木又右衛門のお墓をみてみましょう(詳しくは、当館発行の展覧会図録「荒木又右衛門と鳥取~伊賀越え仇討始末~」(平成27年発行)をみてください)。
そのお墓は、鳥取市新品治町の玄忠寺にあります。
写真絵葉書をみてみましょう。画面中央にみえるのが墓石になります。この墓石の前に2本の石柱があります。
この石柱は、明治45年(1912)の山陰線全通に合わせて、金属製の柵とともに整備されたものと思われます。
山陰線全通とともに、全国的に名が知られる荒木又右衛門のお墓を訪れる人々が増えることが想定され、その墓所の整備を行なったのです。
現在の様子です。
あれっ!上の写真絵葉書に写っている画面左の大きな石柱がなくなっている!
と思われた方。
安心してください。
ありますよ!
その石碑は、御寺の門前左に移築されています。
おわりに~今だから、鳥取市内の街歩き~
今回は、大正時代の絵図面をもとに、数か所を紹介しました。
現在も新型コロナウイルスの影響により外出を自粛されておられる方もおられると思います。さらに、第二波を警戒する動きがある現状です。
落ち着いた際には、今から100年前の絵図面をもとに鳥取市の観光名所等を訪れてみるのもいいかもしれません。
【フォトギャラリー】
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