| 【解説】
吉川経家が切腹と開場を申し出た時、秀吉は責任は因幡の武将たちにあり、経家にはないことを主張し、経家の切腹は認めませんでした。
しかし、経家の意志は固く、因幡の国人・森下道誉、中村春続、そして丸山城に布陣した塩冶高清ら5人の切腹を条件に、経家の申入を受け入れます(「石見吉川家文書」)。
秀吉は戦いは事実上終わったため、鳥取城内に食べ物を差し入れますが、これを食べた人たちの中には極度の飢えから急に食べ物を食べたことでショック死した人もいたようです。
この食べ物の差し入れにより死者が発生したことについて、秀吉が意図していたのかは不明ですが、江戸時代には絶食状態で急に食べ物を摂取することの危険性は知られていたようです。天明の飢饉(江戸時代中期の大規模な飢饉の一つ)の後に書かれた飢饉の際の指南書の類には、急に食べ物を食べてはならず、最初は重湯の様な軽いものから食べることが書かれています。
近年、鳥取城攻めの際の出来事が医学的見地から分析され、当時、秀吉から与えられた食べ物を食べた人たちに「リフィーディング症候群」(飢餓状態での急激な栄養摂取が原因で引き起こす合併症)が起こっていた可能性が指摘されています(参考;鹿野泰寛・青山彩香・山本隆一朗「天正9年(1581年)鳥取城の戦いにおける「兵糧攻め」:日本におけるリフィーディング症候群の最初の記述(Hyoro-zeme in the battle for Tottori castle (1581): the first description of refeeding syndrome in Japan)」(『The American Journal of the Medical Science』2023))。
|