【解説】
宮部継潤はこの時の戦いで鳥取城と丸山城の中間点にあたる雁金尾城にいる塩冶高清を追い落とし、雁金尾城を奪い取り、鳥取城を孤立させることに成功します。
雁金尾城には、塩冶高清が築いた土塁の他、鳥取城に向けて防衛のために築いた土塁の両方を見ることが出来、戦いの経過を城跡から見ることが出来ます。
継潤は鳥取城攻めの後、秀吉から鳥取城の城番を指示されます。伯耆、そして備前へ進軍していく秀吉に代わり、吉川家の牽制役として因幡に在陣しています。本能寺の変後も暫く因幡に残り、織田家中の主導権争いを行う秀吉を、吉川家の牽制役として因幡に在陣し、裏方としてサポートしました。
後に継潤は正式に鳥取城と因幡国内に所領(一部但馬国内にも所領が与えられている)が与えられ、因幡国は関ヶ原合戦が起こる慶長5年(1600)まで継潤、そして嫡子・長熙(長房)の二代にわたり宮部家が城主となっています(早稲田大学図書館所蔵「荻野三七彦旧蔵文書(宮部文書)」等) |