常展・天正9年11 常展・天正9年12

 

湖山池防己尾城(つづらおじょう)。毛利家に忠誠を誓う吉岡将監の居城です。将監は防己尾城にわずか300の兵で立てこもり、秀吉勢を相手に勇敢に戦いました。

崖を登ってきた敵を不意に襲い、女の人や子どもまで石を転がし、数百の兵を倒しました。

【解説】

吉岡氏は吉岡庄(現・鳥取市吉岡温泉町一帯)の現地被官の一族でした。吉岡庄は室町時代初期に青蓮院と鞍馬寺(いずれも京都府京都市)に足利義満が寄進しています。吉岡氏は、そのうち鞍馬寺領の代官として荘園の管理にあたっていたようです(鞍馬寺文書)。

戦国時代になると、吉岡氏は鞍馬寺との被官関係から独立し、青蓮院領も取り込んで、のちに吉川家の保護下に入ったと思われます。

吉岡将監定勝(よしおかしょうげんさだかつ)の戦いについては、江戸時代の地誌「因幡民談記」に詳しく書かれています。これによると、防己尾城には、吉岡の地の老若男女が籠もり、絵にある様に、年齢、性別を問わず秀吉軍に立ち向かったようです。

しかし、最後は、羽柴勢は鳥取城と同じ様に兵粮攻めに切り替え、防己尾城はこれに耐えられず城郭を放棄して、吉岡将監以下の人々は落ち延びたとされています(「因幡民談記」等)。

 

常展・天正9年13

 

秀吉から瓢箪(ひょうたん)の馬印(うまじるし)と2000 の兵を与えられた多賀文蔵(たがぶんぞう)は吉岡右近(よしおかうこん)に馬印を奪われ戦死しました。
【解説】

鳥取城攻めのあと、宮部継潤に宛てた秀吉の書状によると、吉岡の地には多賀文蔵の関係者だと思われる、多賀備中守が所領として宛がわれています(「羽柴秀吉掟書」)。

多賀氏は元々は東近江の国人で、浅井氏の家臣として見える名字です(「浅井軍記」等)。その関係からか、東近江の国人たちは秀吉の家臣となった継潤の被官となったものも多かったようです。多賀備中守は、豊臣期の資料に、宮部継潤の家臣団の一人として名前を見ることが出来ます(「宮部謙吉旧蔵文書」)。

常展・天正9年14

 

秀吉方の殊勲者は宮部継潤。凄まじい戦いの末、道祖神乢(さいのたわ)に進出しました。これにより、鳥取城は毛利方からの米の補給路を絶たれ孤立したのです。
【解説】

宮部継潤はこの時の戦いで鳥取城と丸山城の中間点にあたる雁金尾城にいる塩冶高清を追い落とし、雁金尾城を奪い取り、鳥取城を孤立させることに成功します。

雁金尾城には、塩冶高清が築いた土塁の他、鳥取城に向けて防衛のために築いた土塁の両方を見ることが出来、戦いの経過を城跡から見ることが出来ます。

継潤は鳥取城攻めの後、秀吉から鳥取城の城番を指示されます。伯耆、そして備前へ進軍していく秀吉に代わり、吉川家の牽制役として因幡に在陣しています。本能寺の変後も暫く因幡に残り、織田家中の主導権争いを行う秀吉を、吉川家の牽制役として因幡に在陣し、裏方としてサポートしました。

後に継潤は正式に鳥取城と因幡国内に所領(一部但馬国内にも所領が与えられている)が与えられ、因幡国は関ヶ原合戦が起こる慶長5年(1600)まで継潤、そして嫡子・長熙(長房)の二代にわたり宮部家が城主となっています(早稲田大学図書館所蔵「荻野三七彦旧蔵文書(宮部文書)」等)

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