常展・天正9年08

 

秀吉はすぐに包囲陣を固めました。堀や柵で囲み、櫓(やぐら)を築き、夜は篝火(かがりび)をたき、松明を持った兵が見回りました。
【解説】

羽柴秀吉は天正9年(1581)6月25日に姫路から進軍を開始し、秀吉自身は27日に姫路城を起ったようです。そして小代(現・兵庫県美方郡香美町小代区)で起こった一揆に対応したあと、鳥取城に向けて出発し、7月12日には本陣山に到着した様です。

その様子を見ていた毛利方の家臣は、のちに瞬く間に逆茂木(さかもぎ、木の枝の先端を鋭くとがらせ、柵に結んで敵を防ぐのに用いる、城郭の防衛施設。)や乱杭(らんくい、川や地上に打ち込んだ、敵の攻撃を防ぐための障害物)を設置して鳥取城の包囲を固めたことを書き記しています(石見吉川家文書)。

常展・天正9年10常展・天正9年09 「これだけ厳しく囲めば、いくら知将と言われる経家でもどうにもなるまい、あとは城兵たちが飢えるのを待つばかり・・・」

秀吉は太閤ヶ平(たいこうがなる)に本陣を置き、久松山や丸山をおよそ12 ㎞にわたって包囲しました。

 【解説】

鳥取城の周りには、羽柴秀長や宮部継潤をはじめ、黒田(小寺)官兵衛、蜂須賀正勝らの諸将が布陣しています。黒田家の記録である「黒田家譜」によると、4千の軍勢で守る鳥取城に対し、羽柴軍は総勢6万の軍勢であったとされています。

太閤ヶ平とその周辺には、現在秀吉が本陣を築いた本陣跡や、羽柴勢が展開した陣の遺構が各所に遺っています。

また、秀吉は鳥取城を囲むだけではなく、丹波水軍を率いた細川幽斎(藤孝)の家臣・松井康之を伯耆国の泊(現・鳥取県東伯郡湯梨浜町泊)まで派遣して、泊の城と、鳥取城への支援のために集められた船を焼き払っています(細川家文書)。

 

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