常展・天正9年18 常展・天正9年19

 

吉川経家が鳥取城に入っておよそ200 日。もはや城兵は力尽きていました。経家はついに降伏を決意し、おのれが切腹して、籠城していた人々の命を助けることを願い出ました。

秀吉は優れた武将である経家を死なせたくありませんでしたが、ついに切腹を認め、酒と肴を城に送りました。

【解説】

吉川経家が切腹と開場を申し出た時、秀吉は責任は因幡の武将たちにあり、経家にはないことを主張し、経家の切腹は認めませんでした。

しかし、経家の意志は固く、因幡の国人・森下道誉、中村春続、そして丸山城に布陣した塩冶高清ら5人の切腹を条件に、経家の申入を受け入れます(「石見吉川家文書」)。

 

戦いは終わったとして、秀吉は鳥取城に食べ物を入れますが、これを食べた人たちの中には極度の飢えから急に食べ物を食べたことからショック死した人もいたようです。

この食べ物の差し入れにより死者が発生したことは、秀吉が意図してのことかは不明ですが、江戸時代には絶食状態で急に食べ物を摂取することの危険性は知られていたようです。天明の飢饉(江戸時代中期の大規模な飢饉の一つ)の後に書かれた飢饉の際の指南書の類には、急に食べ物を食べてはならず、最初は重湯の様な軽いものから食べることが書かれています。

近年、鳥取城攻めの際のショック死が医学的見地から分析され、当時、秀吉から食べ物を与えられて食べた人たちに「リフィーディング症候群」(飢餓状態での急激な栄養摂取が原因で引き起こす合併症)が起こっていた可能性が指摘されています(参考;鹿野泰寛・青山彩香・山本隆一朗「天正9年(1581年)鳥取城の戦いにおける「兵糧攻め」:日本におけるリフィーディング症候群の最初の記述(Hyoro-zeme in the battle for Tottori castle (1581): the first description of refeeding syndrome in Japan)」(『The American Journal of the Medical Science』2023))。

 

 

常展・天正9年20常展・天正9年21

 

達に宛てられた手紙で語りかけます。

「自分一人が切腹して籠城した人々を助け、吉川一門の名を上げよう。私がこの世を去っても、その物語を聞くように・・・」

10 月25 日、経家は壮絶な最期を遂げました。35 歳という若さでした。

【解説】

経家は切腹する直前の10月24日と25日に、子息たちや父・経安をはじめ、吉川元春や広家など、多くの遺書を書いています。多くは自らの切腹について名誉であり、これを石見吉川家の発展のために上手く利用して、一族の繁栄につなげることを意図したものになっています。特に吉川元春以下、吉川本家に対しては子息たちを粗略に扱わずに取り立てることを暗に明に依頼しています。

経家の願いに対し、吉川本家はしっかりと約束を守っており、父・経安と子息・経実は吉川本家に厚遇されており、江戸時代には岩国領に入った吉川本家の家老格の家臣として取り立てられています。

 

ちなみに、経家が子息たちに書き送った遺言状の中に、「しあわせものがたり」という文言があります。これを「経家が武士の本懐を遂げ幸せな最後を遂げた物語」として解釈されることがあります。しかし、そもそも「切腹=名誉の死」という観念は、江戸時代以降に定着したもので、この時代には切腹自体を名誉とする考えは基本的にありませんでした。

ここで書かれている「しあわせ」とは「幸福」の意味ではなく、鳥取城に出陣して切腹するまでの「一部始終」という意味になります。この一文の趣旨は、前述のセリフにもあるように、「鳥取城に出陣し、切腹するまでの顛末をしっかりと聞いて、石見吉川家の誉れとして語り継いでいって欲しい」、ということになるでしょう。

『吉川経家書状案』(吉川家文書のうち、「藤原吉川什書巻七」所収)

鳥取のこと、夜昼二百日こらえ候、ひゃう(兵粮)尽き果て候まま、我ら一人御ようにたち、各々を助け申し、一門の名を上げ候、その仕合わせ物語、お聞きあるべく候、かしこ   

  天正九年十月廿五日              つね家 花押     

   あちやこ

    かめしゆ まいる申し給へ

   かめ五

   とく五

 

 

※原文の仮名は適宜漢字に変換

 

 

常展・天正9年22

 

常展・天正9年23

餓死を免れた雑兵や村人達。やっと籠城生活から解放されました。

「地下(じげ)のもんが誰もおんさらんが、どこに行っただか・・・」

 

 

常展・天正9年24

 

戦国時代から天下統一へ、そして江戸時代へ向かう大きな歴史の流れの中に、鳥取城を巡る攻防はありました。

経家や秀吉と共に私たちが忘れてならないのは、鳥取城に籠城した村人達や名も無い雑兵達のことです。平和を取り戻した因幡国。新しい時代が始まろうとしていました。

 

【解説】

鳥取城攻めの後、鳥取城には宮部継潤が鳥取城に入り、羽柴秀吉の指示の下、因幡国内の安定を図っています。

支配体制は一新され、因幡の大名たちは、鳥取城の宮部継潤、鹿野城の亀井茲矩を中心に、木下重堅、垣屋恒総などが因幡衆として再編されました。

因幡衆は秀吉の下で、賤ヶ岳の合戦、小牧・長久手の合戦をはじめ、小田原攻めや島津攻め、壬辰戦争(文禄・慶長の役)に参加しましています。

豊臣期における因幡の支配体制は豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600)に起こる関ヶ原合戦まで続きました。関ヶ原合戦で宮部長熙(継潤は慶長4年に死去)、木下重堅、垣屋恒総らは西軍に与したことで改易され、亀井茲矩だけが東軍に与して関ヶ原に参じたため亀井家は存続することが出来ました。

その後、因幡には池田長吉、山﨑家盛らが入部して、新たな支配体制へと移行しています。

 

 


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