2022.7.29

頼朝が落馬しました

某国営放送の大河ドラマも源頼朝が死去して、いよいよ次の時代へと進んでいくようです。

 

「吾妻鏡」には頼朝が死去した建久10年(正治元年・1199)の記事が残されていません。意図的にないと言われることもありますが、真相はわかりません。

ただし、頼朝の死去については、後世の記事で見ることが出来ます。

 

それは、建暦2年2月28日に、稲毛重成が架けた橋が老朽化したために、三浦泰村がその修理を幕府に訴えています。

ドラマでは頼朝が馬から落馬する前に参加していた亡き妻の「仏事」がこの橋のエピソードにあたります。

 

しかし、この橋の修繕については、御家人達が、頼朝が落馬したきっかけの橋であり、また橋を作った重成も死んでいるので縁起が良くないので、橋の修理はしないで良いだろう、と判断して、源実朝に報告します。

しかし、これを聞いた実朝は、頼朝が死去したのは官位を上りつめて官位を極めたあとのことであり縁起が悪いわけではないし、稲毛重成が死んだのは全く別件のことであって橋とは関係ないといいます。また、鎌倉から伊豆・箱根に行くのには便利な橋であり、庶民たちも利用しているので橋が完全に壊れる前に直すように、と命じました。

実朝の合理的な性格や、庶民にも目が向いている為政者としての資質が垣間見れるような記事ですが、後に実朝が暗殺されることを考えると、不運の橋を架け直したことで自身にも不幸が訪れる、という前振りのようにも見えます。

 

ちなみに、この橋は、文献だけでなく、遺構として確認されています。関東大震災があった大正12年(1923)9月1日の関東大震災と翌年1月の、2回の地震により、神奈川県茅ヶ崎市下町屋一丁目の水田から突如木製の橋脚や土留めの跡が出てきました。

その後、歴史学者・沼田頼輔が橋脚の調査を行ったところ、鎌倉時代初期の木材だということがわかり、場所から考えると稲毛重成が架けた橋であろうとされました(沼田頼輔は、1901年から5年間ほど鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)の教員をしていたらしいです)。

 

この遺構は、大正15年(1926)に歴史的な価値が認められて国史跡に指定されていますが、平成25年(2013)には、関東大震災による液状化現象の跡なども確認されていることから、関東大震災の地質学的な観点から国の天然記念物にも指定されています。

現在は遺構の上に作ったレプリカで、発見当時の姿を見ることが出来ます。

神奈川県に旅行に行った際は、是非、行ってみてください。

 

国史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」の詳細はこちら→

 

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