2025.3.26

今日の出来事(承徳3年〈1099〉3月26日)

令和6年度もいよいよ終わります。

おそらく、これが令和6年度最後のやまびこのわの更新だと思います。

 

そして、やまびこ館では、令和7年度にすでに動いています。

令和7年度の年間行事予定表も出来て、HPも令和7年度のイベントを公開しています。

また、順次配布も開始しています。

是非、ご覧ください!


さて、これを書いているのは令和7年3月26日です。

この日に何があったのか調べてみたところ、いまから926年前の3月26日(厳密に言えば太陰暦と太陽暦で1ヶ月ほど違うのですが)、因幡守平時範が因幡から京都に帰る直前に、因幡から出立するご挨拶のために因幡一宮・宇倍神社に参拝していました。

そこで、奉幣をしたあと、因幡国庁の役人も兼ねていた宇倍神社の神官・久経が酒食を一席用意したので食事をしたあとに国庁に帰っています。ただし、宇倍神社から退去した後、すぐに出発するつもりだったようですが大雨により千代川が荒れていたので出発を延期しています。

 

上記のお話しは、平時範の日記、「時範記」に記されています。

平安時代後期にあたるこの時期の国司は、4年の任期中にほとんど在国することなく、任期中のどこかで1回だけ、よくても年1回に数十日間滞在するだけでした。時範も承徳2年から因幡守でしたが、承徳3年の下向が初めてでした。このとき、時範は承徳3年2月15日から3月27日までのおよそ40日ほどの滞在でした。

ちなみに、時範が京都と因幡を往復したルートは山陰道ではなく、智頭から志戸坂峠を越えて山陽道を使っています。以下の地図は因幡に向かうときのルートを示したものですが、3月27日からの帰りのルートも、宿泊場所は違いますが、智頭から山陽側に抜けて、山陽道を通って京都まで帰ったことが分かっています。

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古代、中世において、京都と因幡の移動の中心は山陰道ではなく佐用を経由した山陽道のルートの方を使用することが多かったようです。

具体的な場所の想定はないかも知れませんが、時範より100年ほどまえの因幡守橘行平が因幡に下向したことを描いた「因幡堂縁起」(最古のものが鎌倉時代成立)をみると峠を越えている絵があるので、因幡国は古くから上級貴族やその関係者(被官、家司)が因幡守となっているので、もしかすると因幡のルート、とりわけ因幡国に入る最後の難所で、かつ入国の際に国司が入国の儀式を行う志戸坂峠のことも、中央貴族たちのもつ情報の中にあったのかも知れません。

ちなみに、海路についてはほとんど史料が残っていませんが、当時外海とつながっていた湖山池に港があり、比叡山無動寺の関係が使用していたと考えられます。

 

なお、鳥取(因幡・伯耆)の古代・中世の交通事情については、錦織勤『古代中世の因伯の交通(鳥取県史ブックレット12)』(鳥取県、2013)に詳しく書かれています。

また、平時範の因幡下向時の日記については、当館の常設展示室にて、「時範、因幡に行く」というアニメーションで紹介しています。日記の記載の概略が分かるかと思います。

日記の原文については、『新鳥取県史 資料編 古代中世2古記録編』に因幡下向の部分を抜萃して掲載しています。現存している「時範記」全体については、『時範記 逸文集成(岩田書院史料選書6)』(岩田書院、2018)で見ることが出来ます。

是非、「時範記」を見てみてください。

 

以上、およそ926年前の出来事でした。