2026.3.15

鳥取藩の知行宛行と蔵米支給

鳥取藩の藩士たちは、藩から土地を宛がわれた者(知行取り)と、藩から土地を宛がわれず、藩の蔵から米や銀を支給された者(蔵米取り)に分かれました。前者は上級の武士で、後者は下級の武士であることがほとんどです。

藩から土地を宛がわれた藩士は、藩主の花押(サイン)の入った「領知判物」という文書が発給されました。これは因幡国、あるいは伯耆国に何石の領知を宛がわれたかが記されており、藩から土地を宛がわれたことを示す証拠となる重要な書類でした。一方、これとセットになる文書に「知行目録」というものがあります。「領知判物」には「目録在別紙」(目録は別紙に在り)という文言が入っており、この目録が「知行目録」のことです。これは藩主ではなく、家老の連名で出されており、因幡国あるいは伯耆国に宛がわれた領知の詳細が記されています。例えば「領知判物」に「因幡国之内弐百石」とある場合、その200石が具体的にどの村に何石なのか、が記されているのが「知行目録」なのです。「領知判物」は、藩主が交代する度に発給されましたが、10代慶行や11代慶栄など、藩主が早世した場合などには発給されていません。藩士たちは「領知判物」を大切に保管しています。実際に、火事などの際に、「領知判物」を入れて避難するための専用のバック(判物箱)があったほどです(「領知判物」と「判物箱」の実物は、鳥取市歴史博物館の常設展示室に展示されています)。

しかし、明治維新後、藩士たちへの知行宛行にも変化が生じます。明治2年(1869)の版籍奉還によって、藩の土地と人民が天皇に返上されました。それにより、藩士たちへ土地を宛がうことが廃止され、改めて藩から藩士たちへ蔵米が支給されることになりました。

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この資料は、鳥取藩の医師であった木下文庵へ藩知事の池田慶徳から与えられた、蔵米の支給状です。ここには蔵米8石5斗7升1合を木下文庵へ支給する旨が記されています。木下文庵は、幕末には藩から30俵5人扶持を与えられていましたが、版籍奉還によって蔵米へ換算された分が支給されることになったのです。これは藩から知行を宛がわれていた藩士たちも同じでした。この時、最後の藩主である慶徳の花押が入った「領知判物」は回収されており、代わりにこの資料のような蔵米支給状が出されたのです。

よく見ると、この文書の中央には赤い印章が捺されています。破損がひどいですが、「換金禄」(金禄に換える)とあることがわかります。これはどういう意味でしょうか?

明治政府は、明治9年(1876)に秩禄処分を断行します。これは、華族や士族たちに支給されていた俸禄、つまり給料を廃止する、というものでした。この時、華族・士族たちには金禄公債証書という証券が渡されます。これは秩禄処分の一環として、禄制の廃止により強制的に禄を廃止したすべての華族・士族にその代償として渡された国債で、数年間は利子の支払いがなされるというものでした。資料にある「換金禄」とは、藩から支給されていた蔵米と引き換えに、金禄公債証書を受け取ったという意味であると考えられます。

この1点の資料には、武士たちが明治維新後、俸禄を廃止されるまでの経緯が刻み込まれています。近世の終焉と近代の始まりまでの過渡期の状況をよく示す資料といえるでしょう。