朝晩に冷え込みを感じる季節となりました。通勤途上の水田では稲刈りが進み、日が短くなった帰りの夜空では美しい月や星々が輝いています。その星空の中には、鳥取市と岩国市の姉妹都市提携30周年を記念して先日「Kikkawatsuneie(吉川経家)」と正式に命名された小惑星「(165167)2000QY109」も静かにめぐっていることでしょう。
さて話は変わりますが6月にこの「やまびこのわ」で弥生時代以降の田植え等で使われた田下駄のことを話しましたが、今回は時期的に稲刈りのことについて触れさせていただきます。現在の稲刈りはイベントとか何かの理由がない限り、ほぼコンバインなどの稲刈り機(機械)を使って根元近くから刈り取る根刈りが行われています。しかし稲作が国内に広まったとされる弥生時代ではもちろん機械はありませんし、稲作とともにもたらされた石包丁による稲穂の摘み取りが行われていたと考えられています。
この写真は市内の東桂見遺跡から出土した弥生時代後期~古墳時代前期頃の石包丁(左)とその未成品(右)です。現在やまびこ館地下1階の常設展示室に他の未成品や上述の田下駄などと一緒に展示しています。板石にあけた穴にひもを通し、それに指を入れて包丁本体をしっかり持ち、稲の茎に刃を当てて穂首部分を切り取ったのでしょう。当時はまだ稲の育成にもばらつきがあったのか、稲穂が実ったものから順に摘み取る穂摘みのほうがかえって効率が良かったのかもしれません。
こういった穂積具ですが、そのうちに石より作りやすい木製の木包丁も作られ始めます。そしてさらにその木の刃部に鉄製の刃が取り付けられたものもみられるようになります。道具が改良される中、おそらく時代とともに稲の品種管理がなされるようになって育成のばらつきが減り、さらに稲わらの利用が増加していくなどの理由があったのでしょう。稲刈り自体も石包丁などを使った穂積み方式から鉄製の鎌を使った根刈り方式に次第に変化していったと思われます。
ただ日本稲作の2000年を超える歴史の中で、稲刈りのこの鎌による根刈り方式は昭和の時代まで続きます。今のような機械化が進むのは戦後以降のほんの数十年のことだと思うとほんとにびっくりですね。展示室で石包丁を眺めながらこんなことを考えてみるのも一興ではありませんか。

