2025.7.16

因幡国の鹿野東照宮 ~池田輝澄の朝暮崇敬のやしろ~

江戸時代、徳川家康を祭神とする「東照宮」が因幡国の鳥取城下に勧請されていることはご存知かと思います。慶安3年(1650)、初代鳥取藩主池田光仲が勧請しました。現在の鳥取東照宮です。

同じような時代、鹿野城下にも東照宮が存在したことは余り知られていないかも知れません。鹿野東照宮とも言うべき存在を江戸時代後期に書かれた地誌『因幡志』は以下のように伝えています。

 

○東照宮之廃跡

石入君館舎の西の山下二町許りにあり。是は石入君此地に御座ありし時、御勘気の御身なから、正しく神名の御外孫にましゝゝけれは、御神霊を勧請なされ朝暮御崇敬ありしなり。其頃神事は勝宿の社司飯田某之を執行し、春秋二時の祭祀怠りなかりしと。石入君の後は其事断絶しければ、宮社を勝宿神社の後に移し奉りて末社の一神とす。今も勝宿の末社の中に東照権現の神号あるは其故と云ふ。旧地は陸田となして社司の所得となりぬ。昔は御神影もましゝゝけるが今は行方分らすと。

 

「石入(せきにゅう)」とは、光仲の叔父池田輝澄のことです。父は池田輝政。母を徳川家康の娘督姫(良正院)とします。光仲の父忠(ただ)雄(お)の弟になります。輝澄は播磨国宍粟郡・佐用郡に6万8千石を有した大名でしたが、家中の騒動で改易となり、一族の光仲に預けられました。その際の居所が鹿野城の西麓の居館で、現在光輪寺のある所と言われています。寛永17年(1640)から寛文2年(1662)に亡くなるまでの22年間ここで暮らしました。鹿野東照宮の建造もこの期間ということになりますが詳しい年代はわかりません。鳥取東照宮より先に建てられた可能性もありそうです。

若い頃の輝澄は、後水尾天皇に馬術を披露するほどの名手であったと徳川将軍家の正史『徳川実紀』は記します。鹿野では好んで鷹狩をしたことが当時の書状からわかります(『因府歴年大雑集を読む』2019)。

『因幡志』が伝えるように、鹿野東照宮は、輝澄の居館の200メートル余り西側にあったといい、当初は徳川家康を描いた御神影(肖像画)も備えたようです。年二回の祭事で祀られたのでしょう。輝澄死去後、嫡男政直が播磨国福本(兵庫県神崎郡神河町)に移居して福本藩を立藩したのちは、勝宿神社(現加知弥神社)に四神相殿社として合祀され、跡地は勝宿社の神田になっていたようです。

『因幡志』は鹿野東照宮の歴史を伝える数少ない記録になっています。

(伊藤康晴)

 

鳥取市鹿野町 光輪寺の庭園(内庭)

鳥取市鹿野町 光輪寺の庭園(内庭)

 

メモ

光輪寺の庭園は池泉回りに輝澄時代の名残をとどめているといわれ、毎年4月~5月になると、霧島つつじの古木が花を咲かせます。