江戸時代の鳥取・バナー

 

PROLOGUE~城下町絵図から~

現在の鳥取市の中心市街地は、鳥取城の城下町でした。今回はやまびこ館が所蔵する鳥取城下の絵図をひもとくことで、江戸時代の城下町鳥取の様子について見てみましょう。この絵図は、内堀内の建物の配置や寺院の名称、東照宮の存在などから、江戸時代の前期、17世紀半ばの城下町の様子をあらわしていることがわかります。この時代の鳥取はどのような町だったのでしょうか。

 

⓪鳥取城下

「鳥取城下絵図」当館所蔵

この城下町の絵図を見ると、黄色やオレンジ、赤などの色に区画が塗り分けられていることがわかります。黄色は武士の屋敷があるエリア、オレンジは町人の屋敷があるエリア、そして赤はお寺や神社をあらわしています。お城の周辺および薬研堀の内側はすべて黄色く塗られており、それぞれ鳥取藩に仕えた武士の名前が記されています。そしてオレンジの町人が住むエリアも周りは武家屋敷に囲まれていました。袋川の外側にも町人や侍の屋敷が建ち並んでいたことがわかります

江戸時代の城下町は、身分や職業などによって住むエリアが決められており、お城の周りや城下町と農村部との境目などには武士の屋敷が配置されました。これはいざという時にお城や町を守れるようにするためとも考えられています。また城下町の中には大きなお寺や神社も見えます。江戸時代には、有力な寺などは城下町周辺に集められ、東照宮のように江戸時代に藩主によって創建された徳川家康をお祀りした神社もあります。

 

鳥取城と武家地

この絵図では、鳥取城が中央上の部分に描かれています。内堀内には久松山山頂の天守や本丸、蔵や厩(馬屋)、会所などがあります(分割図①「鳥取城」)。その周りには武士たちの屋敷が配置されています。中でも鳥取城の周辺、薬研堀に囲われた区画は「郭内」と呼ばれ、「荒尾但馬」や「荒尾志摩」など家老をつとめる家をはじめ、藩士たちの屋敷が建ち並んだエリアです。

 

町人地

 

町人地

そしてこの郭内の外側に町人が屋敷を構えるエリアがあります。この町人エリアと郭内は薬研堀で仕切られ、若桜口御門や知頭口御門、鹿奴口御門などの門が設けられ、町人たちは「御門札」(許可証)がないと郭内には入れませんでした。身分によって城下町内の移動や居住が制限されたのです。そして城下町を囲むように袋川が流れていますが、そこには若桜橋や知頭橋、鹿野橋、鋳物師橋、出会橋などの橋が架けられ、鳥取の城下町へ出入するにはこれらの橋を渡りました。

 

因州東照宮

ところで現在やまびこ館や樗谿公園、鳥取東照宮がある一角は、江戸時代にはどのような場所だったのでしょうか。絵図を見ると、東照宮や長寿院などがあったことがわかります。東照宮は徳川家康を祀った神社で、初代鳥取藩主の池田光仲が創建しました。光仲は家康のひ孫にあたる人物です。長寿院は徳川将軍らの法事などを行ってきたお寺で、こうした機能は東照宮の管理を担った淳光院(大雲院)へ引き継がれます。当時の樗谿は、藩や池田家にとって重要な寺社の建つ場所だったのです。

 

EPILOG~ご城下から市街地へ~

このように江戸時代には多くの武家屋敷が建ち並び、政治経済の中心として、鳥取藩32万石の城下町として繁栄した鳥取ですが、明治時代になると鳥取城の建物が壊され、町の様子も大きく様変わりします。近代以降、鳥取の町はどのように変化していったのでしょうか。

 


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