2025.10.17

【特別展資料紹介⑥(終)】斉衆(乙五郎)の養子入りと池田家の「格」

鳥取藩第8代藩主池田斉稷は、11代将軍徳川家斉の子・乙五郎(後の斉衆)を養子として迎えました。家斉には50名を超える子女がおり、その半数近くが成人していますが、その処遇は幕府にとって頭の痛い問題でした。そこで女子は有力大名に嫁がせ、男子は大名の養子として入れる、ということが行われました。家斉の子女を迎え入れた大名家は、幕府から様々な優遇を受けることが出来ました。

池田家の場合、葵紋の使用が正式に許可されたほか、斉稷の官職が左近衛中将まで上昇しています。光仲以降、代々の池田家当主の官職は左近衛少将が最高で、斉稷の中将昇進は異例のことでした。

これも乙五郎(斉衆)を養子として迎えたことによる優遇措置と考えられます。今回の展覧会で展示している資料の中に「斉稷公大廊下被蒙仰別記」(鳥取県立博物館蔵)というものがあります。これは池田斉稷が江戸城の大廊下詰を命じられた際の御礼・贈答等に関する記録です。

大廊下とは、江戸城における大名の詰所(殿席)の1つで、江戸時代の大名は江戸城に登城した際、家格等によって殿席が決まっており、池田家はそれまで大広間という部屋に詰めていました。この部屋も格の高い大名が詰める部屋ですが、大廊下席はさらに上位の殿席で、上段に御三家、下段に加賀藩前田家などが詰める最上位の部屋でした。池田家は乙五郎(斉衆)を養子としたことで、殿席がランクアップしているのです。斉衆は家督を相続することなく、数え15歳で死去しますが、その養子入りが池田家に与えた影響は大きく、幕府からの優遇措置によって池田家の「格」が上昇しています。

養子を一族以外から迎える場合、その実家の影響力が大きく作用するケースは他にも見られますが、乙五郎(斉衆)の池田家への養子入りはその影響が特に大きかったと言えるでしょう。

 

写真②