江戸時代、大名たちは官位や石高などで格式を競っており、家格の違う家どうしで相互に対等の敬称を用いることはありませんでした。
しかし、親戚の間柄にある大名たちが相互の交際に、同等の敬称を用いる場合がありました。これを「御両敬」(ごりょうけい)といい、当時は親戚の中でも特に親しい家とのみ結ばれた関係です。
池田慶栄は、加賀藩主前田家から池田家に養子として迎えられますが、慶栄の養子入り後、嘉永2年(1849)成立の「御一門様御名書等」(金沢市立玉川図書館近世史料館蔵)には、池田慶栄と前田家が「御両敬」であったことが記されています。慶栄の養子入りで、両家の関係はより親密なものとなったのです。
慶栄の死後、慶徳の時代には両家は「御両敬」ではなくなっていますが、池田家は前田家の「御一門様」として認識され続け、池田慶徳は明治初年に至っても、慶栄の父・前田斉泰やその子・慶寧らと交流を続けており、その時の手紙を「鳥取藩主池田家の養子たち」の会場で展示しています。
慶栄が築いた両家の関係は、近代になっても続いていくことになりました。