2025.9.8

【中世】特別展・パネル展のご紹介 (附 脚気に悩む貴族の冗談)

よいよ、今週末(2025.9.13)から、鳥取市歴史博物館開館25周年記念 令和7年度特別展 「鳥取藩主池田家の養子たち」が開幕します。

鳥取藩主・池田家について、養子という視点で紹介する展覧会です。

是非、お越し下さい!

最終 鳥取市歴史博物館 池田家チラシ-1

 

また、鳥取市中央図書館では、8月に市役所で開催していた鳥取市-岩国市・郡山市姉妹都市提携周年記念事業パネル展が始まりました。

こちらも、見逃した方は是非お越し下さい!

岩国郡山市姉妹都市提携周年記念巡回パネル展A4チラシ(縮小)-1

 


 

さて、池田や姉妹都市、吉川経家とは全く関係ありませんが、最近、「愚昧記」という史料をじっくりと読む機会がありました。

「愚昧記」は三条実房という、院政期~鎌倉時代初期にかけての貴族が書いた日記です。

部分的に自筆原本が遺っており、中世の貴族社会や当時の情勢を知る一級資料です。

その中で、ちょっと面白い記事がありましたので、紹介します。

下記の文章は嘉応2年(1170)11月15日の記述の一部です。

名称未設定-1

長い条文の途中なのですが、細かいところは置いておいて、赤線の部分に注目です。

このとき、実房は朝廷の儀式に参加していたのですが、空き時間を立って待っていました。

しかし、彼はこのとき重度の脚気を患っており、少しの間でも立っているのが辛かったようです。そこで、儀式を差配していた藤原経宗という人(実房の正妻の父親)が実房の様子を見かねたのか、特別に疊を引いて座って待つように促しました。それを踏まえて、赤線の部分になります。

訳すと、「脚気によりどうすることもなく、このよう(疊を敷くという特別の対応)にしたのである。戯れに(私は)(皆さんの)御日記には書かないでくださいよといった。非常に(みんな)顎を解いた(笑った)ものである。」

因みに、この条文は自筆原本で、【】は抹消されている部分ですが、墨消しの下が読めるので実房が最初に書いた状態が確認出来ます。

因みに、画像は東京大学史料編纂所のデータベース(所蔵史料目録データベース)で確認出来ますので、興味のある方は見てください(因みに、該当箇所はこちら→(赤線の箇所は、画像中央のあたり、右側のカラーチャートの「KODAK」の真下あたり)。

墨消しの抹消箇所は画像ではなかなか見えないかもしれませんが、史料編纂所が刊行した『大日本古記録』では抹消箇所も読んで翻刻されています。

 

この記事を考える上での前提ですが、まず、大半の貴族たちは基本的に毎日日記を書きます。彼らの日記は、現代に生きる我々の書く個人的な日記とは違い、その日にあった朝廷儀式やそれに関わる業務を中心に記録し、自分だけでなく、子々孫々と後世の一族が同じ儀式に携わる時の参考とするために日記を書いています。

この日記は、代々の当主たちが記録して、その家の情報として保管され、その情報の集積は、所領と同じくらいの価値をもつ、その家の財産でもありました。

ですので、上記の記事にあるような違例の対応(疊を特別に敷く)については、それを見知った貴族たちが書かないわけはありません。

おそらく、実房はそれを理解した上でこの発言をしています。

 

また、前近代の貴族社会では、朝廷の儀式は原則先例どおりに行われることを良しとしました。

つまり、経宗の対応は善意の行動ではあるのですが、実房をはじめその場に居合わせた貴族たちにとって大きな問題とはしないまでも、先例に違う異例の対応として捉えられたと思われます。

 

これらの前提を踏まえつつ、この記録について考えてみたいと思います。

史料の画像をみるとわかるのですが、彼は日記に「戯云」という文言を後から行間に追加しています。ですので、実房は周囲の人、特に経宗に対して冗談でいったことだと分かります。

そして、抹消されていますが、それを聴いた人たちは「顎を解いた」と書かれています。

この「顎を解く」という言葉口を開けるということを意味すると思いますが、他の史料と併せて見てみると、「笑った」という表現だということがわかります。

つまり、簡単に言えば、実房が冗談を言って周囲の貴族たちがその冗談に対して笑った、つまりウケたということだろうと思います。

 

しかし、最終的に、実房は「各(おのおの、みんな)」と「頗解顎者也」を抹消しています。

ここからは推測になりますが、おそらく実房は脚気が辛い中で、経宗の特別な対応に感謝しつつも、ほかの貴族たちの手前、ばつが悪かったのだろうと思います。

そこで彼は経宗と周囲の貴族たちに、日記には書かないでね、という冗談を咄嗟にいったのだろうと思われます。そしてその冗談は意外にも(すくなくとも表面上は)好意的に受け止められたようです。

そこで、儀式が終わって帰宅後に実房が日記を書くときに、意外に好感触だったのに気分を良くしたのか、その出来事を周囲の反応と合わせて書いてみたのだと思われます。

しかし、書き終わったあとに書いた日記を見直してみたところ、意図が伝わりづらいとおもったのか、はたまた、自分で冗談がウケたと書いたことが恥ずかしくなったのかはわかりませんが、「戯云」ということばを追加して、冗談の発言であることを強調したのだと思われます。

また、この発言自体は「御日記」とありますので、基本的に経宗に言ったことだったと思われますので、他の人たちの反応は削除したのだろうと思われます。

 

貴族の日記をみていても、このような冗談が書かれることは少ないかもしれません(今日の現代人の日記やブログを書いている人でも、自分の言った冗談やギャグを自分でウケたと書く人もあまりいないでしょう)。

漢文や歴史資料というと固い、真面目に記録を残しているというイメージがあって、書かれていたことを真面目に考えて解釈をするかもしれませんが、意外に書いた人の人となりがわかる史料も遺っています(日記などに限定されるかもしれませんが・・・)。

貴族の日記は、『大日本古記録』や『史料纂集』など活字になっているものも多いですので、是非、興味があったら読んでみてください。昔の人の心に少しだけ触れる事が出来るかもしれません。