青谷上寺地遺跡とは

青谷上寺地遺跡は、国道羽合道路および県道青谷停車場井出線の建設予定地で、第1次調査が平成10年から3年3か月の期間をかけて14,200㎡(延べ53,652㎡)が発掘調査されました。さらに平成10年から現在まで、範囲確認・集落全体像解明のために、試掘調査も合わせて46カ所(5,597㎡)が調査されています。

これらの調査では、国内初・山陰初となる発見が多数得られ、出土品の保存状態が群を抜いて良好であったため、全国的に注目されました。平成20年には約14.6haが国の史跡に指定されています。

遺構名 数 量
掘立柱建物 8棟
平地式住居跡? 1棟
土 坑 597基
123条
道路遺構 1条
盛土遺構 5条
木造構造物 118条
焼 土 120ヶ所
水田跡 9地点
卜骨集積遺構 1ヶ所
土壙墓 2基

(平成30年度まで)

青谷上寺地の立地環境

青谷上寺地遺跡は、鳥取市青谷町の西側を流れる勝部川と東側を流れる日置川の合流点南側にあたり、日本海にほど近い平野部に位置しています。

かつての青谷平野は潟湖(ラグーン)が広がっており、そのほとりの低湿地帯に、約2,200年前より集落がつくられるようになります。そして1,700年前の古墳時代前期に衰退するまでの約500年間、この地を生活の場としていました。

画像1

青谷平野には、かつて潟湖が広がりそのほとりに集落が営まれていました。

大規模な土木工事

集落の中心域のまわりを、排水用の大きな溝で囲んでおり、溝は徐々に東側に拡張していきます。この溝には大きな板や多数の矢板を打ち込む、大規模な護岸工事が行われています。東側の溝からは100体をこえる人骨が発見されました。西側の溝では、お祭りの場が見つかっています。集落中心域の内部には、土坑(どこう)と呼ばれる用途不明の穴や、建物の柱跡となる穴があります。

多種多様な出土品

図1

出土品には、多量の土器や石器をはじめ、精巧な木製容器、農工・漁撈具、鉄製工具などの多種多様なものが見られます。遺跡が低湿地にあり、水分を大量に含んだ土の中で、遺物が真空パックされたような状態でねむっていたため、その残り具合はたいへん良く、当時どのように使われていたかを知る上でも、きわめて貴重な資料といえます。

海と山に囲まれた青谷上寺地遺跡では、稲作だけではなく、漁撈や狩猟を盛んに行って、生活のかてを手に入れていたことが分かります。それは多くの農工具や漁撈具、獣骨、貝塚などが物語っています。

遺 物 数 量
土器(コンテナ) 約3,000箱以上
木製品 約13,000点以上
石製品 約3,000点以上
鉄製品 約400点以上
青銅製品 70点以上
ガラス製品 100点以上
骨角製品 2,000点以上
獣 骨 27,000点以上
人 骨 5,323点
人の脳 3点
その他 編み物60点、組み紐、絹織物、糞石

(平成30年度まで)

青谷上寺地の交流

さらに、青谷上寺地に暮らした弥生人は、他の地域の人々と盛んに交流をしていました。北陸・近畿・山陽地方の土器が出土しています。石材も、青谷周辺では採れないヒスイやサヌカイトなども使われています。

400点をこえる鉄製品は、中国・朝鮮半島・北部九州の特徴を持ったものが見られます。また古代中国の鏡やお金「貸泉(かせん)」も出土しています。これらの遺物から、日本海を舞台とした交易や、中国山脈をこえた交流などが行われていたことが推測できます。また、北陸・島根からは、青谷上寺地との技術的な交流をうかがわせる花弁高杯が見つかっています。

青谷上寺地遺跡は日本海側に点在する潟湖(ラグーン)のほとりに位置し、天然の良港として漁撈活動や対外交易を行い、航海技術に長けた人々が住んでいたと考えられています。この航海技術をもとに、海を介した他地域との交流を盛んに行う中で、モノや技術などが行き交う「港湾拠点」として機能したと推測されます。

出土した人骨と脳

集落中心域の東側からは約5,300点、人数にして100人分以上の人骨が見つかっており、時代も弥生時代後期(約1,800年前)のものです。このうち110点、少なくとも10人分に相当する人骨には殺傷痕があり、何らかの争いがあったことが考えられます。また、日本最古の結核の症例となる脊椎カリエスの人骨も確認されました。

さらに驚くことに、日本最古となる弥生人の脳3点が奇跡的に見つかりました。世界でもわずか6例しかないもので、世界的にも貴重な資料といえます。

青谷上寺地遺跡は、弥生時代の人々の生活だけではなく、技術のすばらしさ、人骨や脳が残存していたことなど、様々な分野で注目を浴びる遺跡だといえます。

図2