このページの画像は過去に当館で撮影したものを利用して作成しています。

 

天正9年鳥取城攻め関係地マップ(鳥取旧市内~鳥取市鹿野町)

マップ


鳥取城

鳥取城

天正9年の鳥取城攻めで吉川経家が籠城した城郭です。当時、鳥取城には経家の他、因幡の国人衆の筆頭であった森下道誉と中村春続が詰めていました。

吉川経家は天正9年(1581)3月18日に、芸州加番衆(毛利家が鳥取城支援のために入れた軍勢)に迎えられる中、賀露から因幡に上陸して鳥取城に入城しました。その日のうちに、鳥取城の状況を把握した経家は、翌日には国許に手紙を送っています。

この手紙によると、既に鳥取城は兵粮不足に陥っており、経家は秀吉が因幡へ進攻してくる7月まで、兵粮の調達(主に吉川家への支援の要求)に腐心することとなります。

また、その一方で鳥取から京都や羽柴勢に向けて、間者として山伏を発して、織田方の情報収集に努めています。

そして、6月末には、経家以下6名が連署して吉川方へ兵粮の催促をすると共に、かねてから準備していた計画を基に、戦闘準備に入ります。

 

現在の石垣は鳥取城攻め後に築城が始められたものです。鳥取城攻めの時には久松山の山頂が城郭の中心で、城も石垣ではなく土塁が築かれた「土の城」でした。現在我々が目にする久松山の麓の石垣は鳥取城攻め後に鳥取城に入った宮部継潤が整備を始め、江戸時代になって池田家が因幡に封ぜられて以降に現在の形になったものです。鳥取城跡は現在国指定の史跡となっています。

なお、下の絵図は江戸時代に書かれたもので、城の形状は江戸時代のものとなってしまっています。

布陣図

羽柴秀吉鳥取城攻布陣図(当館蔵)※部分

 

太閤ヶ平(本陣山)

布陣図

羽柴秀吉鳥取城攻布陣図(当館蔵) ※部分

羽柴秀吉が本陣とした場所です。秀吉が築城した城攻めの陣城としては、最大級の大きさを誇り、織田信長の来臨が計画されていたとも言われています。

羽柴秀吉は天正8年(1580)に一旦、山名豊国が守る鳥取城を攻め、和睦に持ち込んでいますが、因幡の国人衆と対立した豊国が鳥取城を出たため、再び因幡攻めを計画します。

秀吉は天正9年6月25日に姫路城の軍勢を因幡に向けて進め、秀吉自身は27日に姫路城を出発しています。秀吉は軍勢を一旦小代の方へ向け、羽柴勢に抵抗していた小代一揆を10日ほどで攻め落とした後、再び因幡への進軍を開始し、7月12日に本陣山(太閤ヶ平)に到着しました。

吉川方の記録によると、本陣に到着した秀吉は

 

なお、太閤ヶ平は現在、鳥取城の付けたりで国指定の史跡となっています。

 

 

吉川経家墓所


吉川経家の墓所と伝わる五輪塔。「因幡誌」によると、廻国の修行僧がやってきた時に、この五輪塔を経家の供養塔に比定したといいます。
ただし、この五輪塔については「因幡民談記」には見えず、江戸時代初期にはなかった伝承だと思われます。

 

奈佐日本之介墓所と丸山城

天正9 年(1581)の鳥取城攻めの時に、吉川方として丸山城を守備した奈佐日本之介と、塩冶周防守高清を供養するために建てられた慰霊碑です。その横には、鳥取市の指定保存樹木となっているタブノキもあります。

丸山城は鳥取城の支城で、かつては目の前を千代川が流れ、賀露と鳥取城を結ぶ補給路の中継地点を担っていました。
奈佐日本之介は但馬国奈佐郷(奈佐庄)の在地土豪と考えられる。奈佐庄(現・豊岡市)は垣屋駿河守豊続が下司職(荘園管理のための現地被官)を務めており、両者は海に勢力を張っていた武士であったと思われます。
塩冶高清は合戦当初は雁金尾城を守備していたが、宮部継潤に攻め落とされ、丸山城に退避しました。そして、そのまま鳥取城の降伏をうけて、奈佐日本之介とともに丸山城で切腹しました。

防己尾城

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天正9年の鳥取城攻めの際に、毛利方として羽柴勢と戦った、吉岡将監定勝の城郭です。

吉岡氏は吉岡庄(現・鳥取市吉岡温泉町一帯)の現地被官の一族です。吉岡庄は青蓮院領と鞍馬寺領(いずれも京都府京都市)に別れていましたが、そのうち鞍馬寺領の代官となっていたことが確認できます(鞍馬寺文書)。戦国時代になると鞍馬寺との被官関係から独立し、青蓮院領も取り込んで、のちに吉川家の保護下に入ったと思われます。

防己尾城では定勝が羽柴勢を迎え撃ち退けました。その中でも秀吉の馬印を預かった多賀文蔵はこの時に討ち死にしました。

この後、防己尾城は鳥取城と同じ様に兵粮攻めに遭い、最終的に定勝は防己尾城から落ち延びたと言います。

この時の防己尾城の活躍は吉川経家にも情報が入っており、7月末に経家は国許へ防己尾城の勝利を書き送っています(吉川家文書)。

また、防己尾城の攻防は江戸時代の地誌「因幡民談記」に細かく紹介され、定勝の活躍が今に伝わっています。

 

母木神社

母木神社

宮吉城跡の麓に建つ神社。宮吉城は、天保13 年(1842)の「母木村田畑地続全図」(鳥取県立博物館館蔵)では内堀・外堀の跡なども確認でき、付近には城山・内堀・大所・若宮などの地名が残る。
永禄7 年(1564)の毛利元就書状(萩藩閥閲録)に「宮吉」とあり、但州衆(山名祐豊勢)が同年8 月23 日に当地などを攻撃するため高草郡徳吉(現鳥取市)へ陣を移している。
天正8、9 年頃(1580、81)当城は毛利方の鳥取城の付城で、羽柴秀吉に従う亀井茲矩の攻撃をうけ、城を守る田公新介高家は降参し、城は破却されたという。
母木村は、亀井茲矩が干拓した日光池の所有権を近隣村落とともに持っており、後年、勝見村が日光池の権利を主張した際に、近隣村落と合同で権利主張のために提出した「日光池干拓覚」が残っている。

 

 

鹿野城跡公園

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城の創建年代は不詳ですが、当地一帯で勢力を振るった志加奴氏代々の居城であったと伝えられています。因幡から伯耆へ向かう連絡路の要地を占め、戦国時代には「因伯為仕切之城」などと記されるように、この地は因幡の防衛拠点として重視されていました。
天正8 年には1回目の鳥取城攻めの後に亀井茲矩が在番として入り、翌年の2回目の鳥取城攻めの時には鹿野城に留まり、西側の防備にあたっています。鳥取城落城後、羽柴秀吉は亀井茲矩を鹿野城主とし、気多郡13,800石が与えられました。

その後、元和3 年(1617)まで、茲矩、政矩の二代にかけて鹿野城を居城としています。「因幡志」によると艮(北東)の方向を前にして、本丸・二の丸・塀重門・塀風櫓・内塹・外塹・薬研堀・二重石垣などが築かれ、北は鹿野の町、本丸の天守台のほか、詰の丸、二の丸、三の丸、西の丸などを築き、内堀の外にも出丸を築いて外堀をめぐらしたといいます。。

西の丸下にはオランダ楼・朝鮮楼を建て海外貿易によって得た南方の珍しい材木で一室を造り、茲矩はここを居室にしていたとされています。茲矩は鹿野城に「王舎城」と名付けたとされています。

 

亀井茲矩墓所

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 亀井茲矩は、尼子氏の家臣・湯氏に生まれ、尼子氏滅亡後、尼子勝久、山中幸盛(鹿之介)らと尼子再興のために織田信長の軍に加わり、毛利氏と戦いました。茲矩は天正9年(1581年)の鳥取城攻めで戦功を挙げ鹿野城主となります。関ヶ原の戦いでは東軍に加わり、慶長5年(1600年)、鹿野藩3万8千石の近世大名となっています。
茲矩は鹿野藩主として農業開発などに治績を残したほか、朱印船貿易を行ったことで知られています。慶長17年(1612)に鹿野城で死去し、鹿野藩領内に葬られました。

亀井家は2代藩主・亀井政矩の時に元和3年(1617年)に石見津和野藩に移封されています。
茲矩の墓は、鳥取市気高町と鳥取市鹿野町の旧町境をなす丘陵上にあります。墓所には、丘陵のふもとから山頂にかけて参道が造られており、山頂に石垣を巡らした基壇及び台座の上に、高さ308cmの大型の墓碑を持つ墳墓が建てられています。
墓碑の四面には、梵字が刻まれ、さらに東面には没年月日と「中山道月大居士( ちゅうざんどうげつだいこじ)」の戒名が刻まれています。
なお、津和野藩主・亀井家墓所は津和野町の乙雄山( おとおやま) に所在し、初代政矩( まさのり)以降の歴代藩主墓など71基の墓石が残っています。また、津和野町の亀井家墓所にも、藩祖として茲矩の墓石が建てられています。津和野町の墓所と、鳥取の茲矩墓所は国指定史跡となっています。

(参考)鳥取県文化財ナビ等

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津和野町・亀井家墓所の茲矩の墓

 

その他の縁の地

大崎城

細川幽斎(藤孝)の家臣・松井康之が賀露港を抑えた後、9月上旬に伯耆国の泊城を焼き討ちにし、因幡の後詰めのために用意した船を破却した際に、その途中で大崎城も焼き討ちにしています。

 

本願寺

撰択山と号し、浄土宗の寺院です。本尊は聖徳太子の作と伝える阿弥陀如来です。本願寺を建立したのは、吉川経家の切腹後、秀吉の命により鳥取城に入った宮部継潤です。継潤は天正年中(1573 ~ 92)に但馬国豊岡城に在城していたとき、来迎寺を建立します。来迎寺は丹後国久美浜村(現京都府久美浜町)の本願寺21 代の住職であった法蓮社栄誉をもって開山としました。そしてその後、天正10 年(1582)に宮部継潤が栄誉を因幡に招き、本願寺が創建されたと伝えられています。
当寺の梵鐘は平安時代前期の作と推定され、中国地方最古の鐘として国指定重要文化財にしていされています。この鐘は宮部氏の時代、和田七郎左衛門入道浄念が高草郡伏野の海辺で出会った竜女の願いをいれて本願寺に納めたとの伝説があり、これにちなんで俗に竜宮の釣鐘と呼ばれています。

宮部継潤はこの後、本能寺の変後が起こると、亀井茲矩と共に吉川氏を牽制する役割を担い、豊臣政権が成立すると、鳥取城を正式に与えられ、20年間(家督は天正18年(1590)に子息・長熙に譲渡)、鳥取城主として因幡を治めています。

 

重箱緑地公園(旧千代川の流路)

重箱公園はかつての千代川の流路にあたります。千代川が大きく屈曲していた千代川西岸にあたるこの一帯には、吉川平介の他、浅野長吉(のち長政)、杉原家次(羽柴秀吉の妻・北政所(高台院)の叔父)などが布陣し、賀露と丸山城の通路を遮断していました。

特に吉川平介は千代川と現在の袋川の合流地点で海上交通を遮断していたといいます。

 

【吉川平介】

織田信長の下で伊勢で船奉行を務めていましたが、後に羽柴秀長の配架として紀伊国に入り7千石の所領を得ています。紀伊湊で木材の調達や管理を担当していましたが、天正16年(1588)に秀長の命令で大坂に木材の販売を行った際に代金の着服が露見して切腹します。

 

【浅野長吉(長政)】

尾張国に安井重継の子として生まれ、織田信長の弓衆・浅野長勝の養子となった。早くから豊臣秀吉に属し、近江や播磨、山城などに知行を得た。また天正12年(1583)には死去した杉原家次の跡を受けて京都奉行となっている。豊臣政権下では文禄・慶長の役(壬辰戦争)で朝鮮半島に渡り、軍事監督を務めた。またいわゆる五奉行の一員として政権の実務を担った。関ヶ原合戦では東軍に属し、常陸国内に5万石が与えられた。慶長16年に江戸で没した。

 

 


 

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