1青谷上寺地遺跡のくらし

米作りの広まり

 弥生時代は、灌漑技術を使った水田稲作が広まった時代です。青谷上寺地遺跡からも水田跡が見つかっていて、開墾・耕作や収穫などに使われた道具も出土しています。炭となった稲穂も見つかっています。
また、水稲を作る技術と共に、さまざまな農具とそれを作る技術が伝わりました。そして、1年かけて守り育てる米作りが、生活の基本になりました。農事暦(種まきや収穫など、農作業をするための暦)に関連した祭りも、豊作を願う大切な行事として行われるようになりました。少し前の「日本の農村風景」の原型ができたといえます。

海の恵み・山の恵み

 青谷上寺地遺跡は、日本海につながる静かな潟湖(内湾)、豊かな森や川、水田の周りには低湿地と、さまざまな自然に恵まれていました。
潟湖や外海では、網や釣り針、ヤスやモリで魚などをとっていました。磯や岩礁でカキやアワビをはがしてとるためのアワビオコシも見つかっていて、潜水漁も行われていたことがうかがえます。
森では弓矢や罠で動物を狩りました。木の実や食用植物の採集も、大変重要な仕事でした。 また、海からは人が生きていくのに欠かせない塩分、森からは燃料となる薪なども得ていたと考えられます。

祈りの世界

 弥生時代になると、農耕にかかわるマツリが伝わるなど、新しいマツリや占いが行われるようになりました。
自然を敬い、ともに暮らす弥生時代の人々にとって、感謝や祈りをささげるマツリや事の正否を問う占いは、とても大切なものでした。
青谷上寺地遺跡では、マツリの道具がたくさん出土しています。実物をまねて木で作った形代、琴、土笛、線刻絵画土器、スタンプ文土器、犠牲獣など、さまざまなものがあります。村のマツリや家族のマツリなど、いろいろなマツリが行われたことでしょう。
「骨卜」という占いの道具である「卜骨」は250点以上も出土していて、日本で最多をほこります。

大規模な土木工事

 湿地に囲まれ、海辺も近い微高地に居を構えた青谷上寺地遺跡の人々は、水田を開き守り、ムラを守り発展させるために大規模な土木工事を行いました。居住地を囲んだ大規模な溝の護岸工事は、数度にわたり繰り返されました。洪水や飛砂による土砂の堆積も検出されています。自然災害との戦いも不断の努力でなされたことでしょう。
区画や治水の役割を持った溝は、作り始めた頃は素掘りでしたが、土砂で埋まるにつれて何度も護岸工事が行われました。中期の護岸工事は杉の大板を杭でとめる形が主流でした。後期には矢板をきれいに打ち込んだ構造に変化します。
この工事に使われた木材の多くに建築材の廃材が使われていました。再利用されたこれらの木材は、弥生時代の建築技術の解明に大変役立っています。

土器いろいろ

 弥生時代に最も多く作られ、生活に欠かすことができなかったものは土器です。
遺跡から出土する土器は、さまざまな情報を教えてくれます。
粘土を望んだ形にして焼いて作る土器は、さまざまな用途に使うことができます。それは、作り手が生きた時代や文化や社会を反映しているということになります。
青谷上寺地遺跡が、弥生時代前期から後期まで長く続いたことがわかるのも、その時代の土器がたくさん出土しているからです。
また、出土した土器に残る痕跡は、土器がどのようにつくられ、どのように使われたのかを伝えてくれます。

交流する人々

 青谷上寺地遺跡の人々は、他の地方の人々とさまざまな交流を行っていました。
周辺では手に入らない材料を使って作られたものや他の地方で作られたことが明らかなもの、作り方や形が遠方と共通であるもの、他の地方で始まった風習や生活様式、あるいは技術に根ざしたものが出土していることが、それを教えてくれます。
徒歩か水上交通以外に移動手段を持たなかった弥生人ですが、私たちが想像する以上に広範囲な交流を行っていたようです。
青谷上寺地遺跡に住む人々は、広く交流しながらさまざまな情報を得て生活していたのです。

2青谷上寺地のものづくり

玉をつくる

 弥生人にとっての玉は、単なる装身具ではなく、まじないやマツリなどの活動と大きくかかわる呪術的な意味をも持ちあわせたものです。弥生時代には、管玉の製作もはじまります。緑色をした碧玉を主な素材としています。管玉は山陰の多くのムラでつくられています。また、弥生時代後期になると、ガラス製の勾玉、管玉、小玉も出土します。
青谷上寺地遺跡からは、玉をつくる道具、つくっている最中の未製品もたくさん出土していて、原石から製品にするまでの工程を復元することができます。
碧玉の素材は石川県や福井県といった北陸地方から手に入れていたようです。

骨角器をつくる

 骨角器は、骨や角を素材とした弥生時代の大切な道具です。骨や角は適度な硬さと柔らかさを備えているので、加工しやすく、かつ丈夫な素材です。加えて、鹿角、哺乳類の骨、鳥類の骨、魚類の骨、歯牙、貝殻などそれぞれの特性を生かした使い方がなされています。
骨角器の種類は、ヤス先・モリ先や釣り針などの漁具、骨鏃などの武器・狩猟具、簪・櫛や腕輪などの装飾品、針や刺突具などの日用品、マツリや占いにかかわる品など多種多様です。
素材の多くは、食用として捕らえた動物や魚貝類から得ていると考えられます。

布を織る・かごを編む

 縄文時代のおわり頃から弥生時代にかけて、大陸から新しい技術が伝えられますが、そのうちのひとつが織物です。それまでは編んで布などをつくっていました。弥生時代の織物は絹と麻が使われたと考えられ、青谷上寺地遺跡では絹織物が見つかっています。
編み物も約70点以上見つかっていますが、そのほとんどがカゴです。材料は蔓状の枝をもつマタタビが多く使われています。出土したかごを観察すると、「巻き編み」や「網代編み」など、様々な編み方が確認できます。中には現在使われていない編み方もされています。

木器をつくる

 青谷上寺地遺跡で出土した木の道具は、その目的に応じた樹種の選定や木取りがされています。
大きな力がかかる鍬・鋤の柄、精巧な高杯・椀・壺などの容器にはヤマグワを主とする硬い広葉樹、日常使う桶・槽・曲げ物などの容器や建築材にはスギなどの針葉樹が使われています。
特に「花弁高杯」と名づけられた朱塗りの高杯や脚部に透かしを施した「桶形容器」などの木製容器に見られる高い技術は、大変高度なものです。また、漆で華麗に彩られたものも出土しています。

匠の道具箱

 さまざまな木の道具や容器を作った青谷上寺地遺跡の人々は、石や鉄の道具を自在に使いこなしていました。
石の道具「石器」は弥生時代以前から使われてきましたが、弥生時代になるとそれまでとは違った形のもの「大陸系磨製石器」が伝わってきました。砥石などにも変化が現れました。
鉄の道具「鉄器」は弥生時代になって大陸から伝えられましたが、鉄を作る技術(製鉄技術)は伝わりませんでした。製品などの形で手に入れた物をそのまま、または鍛冶などによって加工して使っていました。鉄の刃物の伝来は、加工しやすいスギなどの針葉樹の利用につながったと考えられます。鉄は先端的な道具として匠たちの技術を支えました。

3語りかける弥生人骨

甦った弥生人

 いまから約1,800年前の弥生人です。
100人分以上出土した人骨の中から、ほぼ完全な頭蓋骨を選び、どのような顔立ちであったのかをコンピュータで復元してみました。
モデルになったのは熟年(40~50歳代)の男性で、渡来系弥生人です。上の歯はすべて残っています。下あごには歯根膿症の症状が見られます。歯は全体にだいぶ磨り減っていて、現代人よりも酷使していたことが伺われます。
この男性が、髭を蓄えていたのか、どのような髪型をしていたのか、骨からはわかりません。この復顔では、顔の輪郭がわかりやすいように髭をつけていません。髪型はあくまで想像で描いています。
複顔は、鳥取大学医学部の井上貴央氏にお願いし、同学部の井上仁氏のご協力を得ました。

語りかける弥生人骨

 青谷上寺地遺跡からは100人分以上の人骨が出土しています。見つかった人骨の一部は埋葬されたものでした。
しかし、少なくとも109体分の人骨は、「SD38」と名づけられた溝の中に打ち捨てられたような状態で出土しました。この人骨群の中から鋭い刃物で傷つけられた骨が110点見つかりました。何らかの理由で殺傷された人々と考えられます。これらの人々は弥生時代後期後葉(約1800年前)に生きた人々でした。
また、中には病気の跡を残した人骨も見つかりました。結核の症状を示したものは日本最古の感染例です。

弥生人の脳

 今から約1,800年前(弥生時代後期後葉)の溝から、およそ5,300点の人骨が発見されました。このうちの3点の頭蓋骨の中に奇跡的に脳が残っていました。これらの脳からDNAを検出し、青谷上寺地の弥生人のルーツなど様々な情報を得られる可能性があります。
脳は腐りやすく、遺跡から発見されることはほとんどありません。青谷上寺地遺跡における古代人の脳の発見は日本初のものであり、世界的に見ても発見例はわずか5例しかありません。
脳が残る条件としては、死亡直ちに埋没して空気と遮断されること、脳が乾燥しない環境にあること、土壌生物や腐敗菌が繁殖しないなどがあげられます。
現在、青谷上寺地遺跡の脳はアルゴンガスで封入した後、特別に製作した氷温庫に収納して鳥取県立博物館で保管されています。ここで活用されている氷温技術は、鳥取県で開発されたものです。

青谷上寺地の絵画と文様


 青谷上寺地遺跡からは、土器や木器、骨角器、石器などに様々な絵や文様があらわされています。
弥生時代の多くの遺跡から見つかる流水文をはじめ、三角文やスタンプ文などの文様があります。特に、台のある壺にびっしりとスタンプ文などの文様を入れた「台付装飾壺」は、山陰独特のものです。
また人やシカ、魚、動物などの絵画資料も見つかっていますが、最も多いモチーフが魚です。日本海沿岸の特徴とされており、青谷上寺地遺跡も海と密接に暮らした人々が、土器や石器、木器などに魚の絵を描いたのでしょうか。